「陸軍軍医総監」というのは、実は階級呼称で職名ではありません。職名としては「医務局長」が陸軍衛生のトップとなります。 ところが、軍医総監でありながら、医務局長にならない方もおります。 順天堂から西南戦争、日清戦争、日露戦争に出仕した佐藤進軍医総監もその一人です。平時には東京順天堂病院を切り盛りしていたのです。 佐藤軍医総監の礼装姿の写真は、一般に流布されていますが、彰古館には珍しい背広姿や、手術室での下駄履きの写真が残されています。 逆に第2代、第5代陸軍軍医学校長の足立寛軍医監は、軍医総監にならなかったにも拘わらず、肖像画が残されています。彰古館展示の白眉、黒田清輝の揮毫によるものです。この肖像画の裏書きには「明治44年(1911)、5月6日の私の古希(70歳)の祝いに旧門下生と友人1000名が祝賀会を催してくれた。その記念に、油絵肖像画1枚、金時計、軍用隻眼鏡、コンサイクロペチア・フリタニカ29巻(原文ママ)ほか、を寄せられる。これすなわち、その一つなり。記して以て後の考証となす。足立寛誌」と書かれています。後年の研究者にとっては実にありがたい添え書きです。 高名な洋画家、黒田清輝に肖像画の依頼をしたのはかの森林太郎でした。 ほかにも、臨床用のX線装置1号機を私費で購入して陸軍軍医学校に寄贈した芳賀榮次郎は、軍医総監でありながら、医務局長にならなかった経歴の持ち主です。明治40年(1907)の第13代陸軍軍医学校長が軍中央の最後の勤務です。 彰古館には、大佐時代に撮影された大判の写真と、金婚式の記念の胸像があります。また最近、撮影時期不詳の集合写真に、森林太郎(軍医監?)と並んだ芳賀軍医(大佐?)の写真が見つかっています。 実は、二人は脚気に関する見解の違い(森は細菌説、芳賀は麦飯主義)から、距離を置いており、二人が並んだ写真というのは、珍しいものです。 芳賀軍医は、軍医学会の生き字引として昭和28年(1953)、89歳の長寿を全うしております。 医務局長でありながら、肖像画が残されていない方は大勢いますが、その筆頭が森林太郎でしょう。彰古館には、戦後自衛隊OBの吉田栄一が揮毫した肖像画が展示されています。 森軍医総監は、明治26年(1893)第7代、明治39年第12代と、二度の陸軍軍医学校長勤務を経て、第8代医務局長となります。先の集合写真は、二度目の軍医学校長時代のものと考えられます。 森の医務局長時代の写真で興味を引くのは、通常は将官になると外す兵科徽章を装着していることです。森医務局長は「僕は医者だから外さないよ」と、深緑の襟章を軍医監昇任時から付けたままでした。極めて重大な服務規律違反になるところですが、森に文句を言える将官は、陸軍省内に一人もいなかったそうです。「森が陸軍にいることは、陸軍の誇りである」とまで言われた、森軍医総監ならではのエピソードです。