今から132年前の明治10年(1877)、時の陸軍卿(陸軍大臣)西郷隆盛が蜂起します。世に言う西南戦争です。陸軍健軍から僅かに5年後のことです。 この西南戦争で、陸軍は近代戦争における軍の運用が、まだまだ未熟であることを露呈しました。ところが軍医部だけはうまく機能していたとされます。 その理由のひとつに、膨大な臨床例のデータ化があげられます。戦役終了時には、各軍団の業務詳報が陸軍軍医学校に集められ、解析された資料は、数字で統計にまとめられたのです。 西南戦争の医学的な特徴は、その受傷者のほとんどが銃創であったことです。 この戦役では、石黒忠悳二等軍医正は「現地の包帯所も良くやってくれておるが、やはり重症患者は、大病院で集中的に治療を行う必要がある」と、大阪に陸軍臨時病院を開き、自ら病院長となりました。 石黒は、西南戦争を「わが国で最初の大掛かりな鉄砲傷の戦いである」と位置付けています。 大阪陸軍臨時病院では、8569人という未曾有の傷病兵を受け入れています。 石黒の大阪陸軍臨時病院報告摘要によれば、負傷者の入院数は5999人、1カ月平均で約4000人が入院しておりました。 この大量の臨床例を扱うことによって、軍医たちの実力は欧州並みの医療レベルに引き上げられたのです。 治験記事によれば、負傷者の多くは銃創であり、一部が刀傷、火傷が極少数あります。 彰古館には、これらの記録のほかに、負傷者から摘出された弾丸の実物が残されています。その多くは、口径14・5mmのエンピール銃、もしくはこれを後装銃に改造したスナイドル銃のものと思われる弾丸です。 また、一部には球状弾が残っており、これは西郷軍が旧式の火縄銃までを持ち出していた証拠です。 エンピール銃、スナイドル銃はどちらも、ミニエー銃と呼ばれた施綫銃(ライフル銃)です。エンピール銃は旧式の先込め式(銃口側から火薬と弾丸を圧入するタイプ)で、スナイドル銃はこれを近代的な後装式(銃身の後部が開閉式で、火薬と弾丸がパッケージ化された金属薬莢式のタイプ)です。 急な蜂起で、弾薬補給もままならない西郷軍は「仲間になるから必ず鉄砲を持って来い」という条件もあったようです。彰古館に現存する摘出弾は、口径も銃種も多種多様で、西郷軍の台所事情が窺い知れます。 この乱戦において、負傷した兵士から摘出した弾丸を一つ一つ記録した陸軍軍医部の仕事振りと、132年を経た現在まで伝えられている事実は評価に値します。 その変形した弾丸からは、まるで撃たれた官軍兵士の苦悶の声が聞こえて来るかのようです。名もない一兵士たちの臨床例が、後の医学の発展に寄与したと願わずにはいられません。摘出を受けた兵士のほとんどは、感染症で亡くなっています。消毒法が確立する、はるか以前の戦争が西南戦争です。 摘出弾と治験記事を照合すれば、戦傷の実態が明らかになり、軍事医療史の1頁が埋められるのです。
朝霞駐屯地(司令・木野村謙一将補)の振武臺記念館は11月28日、本格的整備を完了し新装オープンした。 今回の本格的整備は、陸軍豫科士官學校の歴史を後世に伝承するに相応しい記念館とすることを目的に実施した。 主要な整備内容は、説明看板の新設、取り付け道路、玄関等記念館周辺の改修と写真・掲示物の額や説明札等の規格統一、並びに配置換え等館内展示要領の改善だった。 特に朝霞駐屯地は、外国人を含む部内外の来訪者が多いことから、説明に英語標示を加えた。 なお、新装セレモニーは、陸軍豫科士官學校卒業生26名を来賓としてお迎えし、駐屯各部隊長、業務隊整備関係者約60名が参列し、業務隊長整備概要説明、駐屯地司令式辞、来賓祝辞、テープカット、写真撮影を実施し、最後に新装した記念館を見学して終了した。 駐屯地広報は「読者の皆様の来館をお待ちしています」と語っている。