大東亜戦争に敗北した日本は1945年、平和国家として出発し、現在に至っている。この間日本から「尚武」の思想が消えて久しい。しかし歴史を顧みると、16世紀頃から戦前まで日本は「武国」との自意識があったと、佐伯真一氏は著書『「武国」日本』で述べている。以下、同著を参考として、歴史に現れた武の思想を概観してみよう。
中世の日本人が「武」をどう考えていたか、『平家物語』などの軍記物語から伺い知ることができるが、時代の新しい軍記物ほど「武」を肯定的に記述している。初期の軍記物である平安中期の『将門記』は、力強く戦う将門に対して否定的であり、戦災に苦しむ人々の記述が多い。
13世紀前半に成立した『平家物語』になると、多様な視点が共存し、武に対する否定的な記述も見えるが、全体としては戦う武士たちの姿と心が肯定的に描かれている。また同じ頃成立した『平治物語』では、国家にとって文武が重要であるが、末代には世が乱れるために「武」が重要になる、との認識を示している。そして14世紀後半に成立した『太平記』になると、知謀を駆使する良将など武士の存在が一段と全面に出、乱世を治める政道を摸索している姿勢が覗える。
近世になって、「天下布武」を標榜し武力による統一をほぼ成し遂げた織田信長、および信長を継承した豊臣秀吉は、実力をもって中世国家を解体し、新たな支配体制をつくりだした自信に支えられて、これを可能にした「武」を否定的に見ることは全くなかった。秀吉は日本を「弓箭厳しき国(=武力にすぐれた国)」と言い、日本を「武国」として誇る自意識があった。
江戸時代、日本が武国であるとの自国観は一般化し、定着した。この認識は日本人だけのものではなく、朝鮮通信使との交流記録から、朝鮮人が自国を「文の国」、日本を「武の国」と認識していたことがわかる。この認識は現代の韓国にまだ生きている気がする。
幕末、強力な西洋列強、特にロシアから侵略される危機感をもった水戸藩の儒者会沢正志斎は言う。日本が武をもって国を建て、武威を振るってきた由来は古い。武士が所領から切り離されて城下町に住む時代へと変化して、日本の武は衰えた。すべての民が天命(すなわち天皇の勅命)を奉じて戦った武国の黄金時代を現代に蘇らせなければならない、と。
会沢正志斎の理想は、明治国家の建設によって達成されたと言えるだろう。明治維新は、西洋列強並の強い武力(=軍事力)をもった近代国家を建設する、渾身の体制変革だった。建設された大日本帝国は、「富国強兵」を標榜した。昭和になると大日本帝国は軍国主義化した。軍部の力は強く、軍部が国政を左右した。統帥権の独立などという極端な軍事重視の思想が成立し、これが大日本帝国を滅ぼすことになった。
戦後、軍事で失敗した戦前の経験がトラウマとなって、軍事力に関する本格的な考察は避けられるようになった。歴史を振り返ると、国が乱れ武士が勃興して武家政権が確立する時代と、外国の脅威に直面して国の独立が脅かされた時代に、当然のことながら、武力・軍事力が重んじられ、これに関する考察も深められることがわかる。
増大する外国からの脅威に直面する令和の日本は、過去の成功と失敗を糧としつつ、どのような武力・軍事力の思想を生み出すだろうか。(令和4年2月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |