明治27〜8年(1894〜95)、日清戦争当時、芳賀榮次郎三等軍医正は、名古屋第三師団第五旅団元山支援隊の第二野戦病院付として従軍していました。
芳賀軍医は「日清戦争に於ける銃創治験」という30万字にも及ぶ大論文を発表し、後にドイツ語に翻訳もしています。臨床での詳細なデータに基づいた論文は、高い評価を受けたのです。
芳賀軍医の記録によると、第三師団出征中、1日の平均総人員は1万8829名で、同じく1日当たりの戦闘員総数は1万2859名、死傷者総数は1315名、その内の即死者は210名となっています。死傷率は8・5%です。
これは1861年の南北戦争の北軍34・5%、1870年の普仏戦争10・8%、1877年の露土戦争13・5%に比べてかなり低い数値で、芳賀軍医は「消毒法の進歩によるもの」としています。
日清戦争では即死を含む負傷による死亡100に対し、凍傷を含む病死は186・1という割合でした。負傷者は銃創が90・8%、砲創が7・6%、刀傷が1・6%の割合で、圧倒的に銃創患者が多い戦争です。
使用された武器は、日本側は口径11mmの単発式の十八年式村田銃で統一されていましたが、清国軍は新旧36種類、小銃弾も8mm、11mm、13mm、14mm、19mmほか、多様の小銃が混用されていました。
芳賀軍医は、これらの摘出弾を詳細に検分し、標本を作製し、論文作成の資料としています。その一部は陸軍の正式な報告書「明治二十七・八年役陸軍衛生事跡」に掲載され、後に明治天皇、昭和天皇に天覧されています。
その報告書と、実際の摘出弾が彰古館に現存しているのです。
受傷者数の90・8%を占める1315名の銃創患者は、ほとんどが旧式の鉛弾によるものですが、僅かに30数例は小口径のドイツのモーゼル7・92mmの銅被甲(フルメタルジャケット)弾による症例でした。
兵器廠の保管記録によれば、この戦役で捕獲されたドイツ製小銃は、モーゼル88で、オーストリーのマンリッヘル小銃の弾倉機構を取り入れた5連発銃で、当時最新式の小銃です。
芳賀軍医は「銅皮弾は近年発明され、1877年の露土戦争以来、欧州では戦争が無かったので、学者達には、この報告は熱望せらるであろう」と述べています。
鉛弾との比較では、四肢を除く、頭顎胸腹部の銃創では、生命に及ぼす危険性は同等だとしています。
銅被甲弾の特徴は、初速が速いことです。「遠距離でも活力旺盛で、侵徹力が絶大である」、そのため「ほとんどの銃創は貫通銃創」であり、軟部銃創では「射入口が小さく、すぐに傷口が塞がり」、四肢骨に当たった場合は「骨の粉砕度は大きいが、感染予防の処置を施せば、四肢の切断に至るような症例は少ない」と世界初の症例を、摘出弾の図を添えて紹介しています。
これらの新型弾による症例は、予後の経過が良好で復帰率が高い(全負傷者1105名に対して358名-32・3%と結んでいます。
新しい兵器による近代戦の片鱗を、彰古館の摘出弾が無言で示しているのです。 |