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   2004年7月15日号
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航空自衛隊創立五十周年記念式典式辞
本日ここに、石破防衛庁長官、国会議員の方々をはじめご来賓多数のご臨席を賜り、また、全国七十二基地の代表隊員が一堂に会し、航空自衛隊創立五十周年記念式典を盛大に挙行できますことは、航空自衛隊にとりまして大きな慶びとするところであります。

 本式典を挙行するに当たり、この五十年間に、航空自衛隊の任務遂行のため、志半ばにして、その職に殉じられました殉職隊員三百九十五柱 の英霊に対しまして、心から哀悼の意を表し、その御霊の安らかならんことをお祈り申し上げます。
 
 昭和二十年八月十五日、我が国の敗戦により、帝国陸海軍はその歴史を閉じました。
 しかし、その後の東西両陣営の対立の中、朝鮮戦争が勃発し、我が国独自の防衛力の必要性から、昭和二十五年八月に警察予備隊が、ついで昭和二十七年四月に海上警備隊が発足致しました。
旧軍における航空戦力は、旧陸海軍それぞれの作戦要求に基づき開発・装備・運用されてまいりましたが、敗戦によりその戦力は瓦解し、じ後、約十年の間、空白の状態が続きました。
昭和二十八年八月、ウェイランド米極東空軍司令官は、増原保安庁次長に対して、「米空軍はいかなる援助をも惜しまない。」として、航空自衛隊の創立を強く促し、以降、航空自衛隊の設立準備が、本格的に開始されたわけであります。
 昭和二十九年三月八日、日米相互防衛援助協定が調印され、無償供与の航空機等多くの装備品等を引き継ぎ、さらには、極東空軍司令部内に設立された在日航空顧問団の協力の下、公募された要員に対し、航空自衛隊員としての教育訓練が実施されたわけであります。
 我が国において、航空防衛力を単一の軍種として設立することには様々な議論があり、当時の国民世論も相まって、その発足に際しましては、並々ならぬ困難が伴ったと聞き及んでおります。
 しかしながら、航空戦力を独立させることはすでに世界の趨勢であり、また、我が国防空のため、航空自衛隊は、昭和二十九年七月一日、航空機約百五十機、人員約六千七百名をもって発足致しました。
 米極東空軍による操縦教育の下、昭和三十年五月二十八日、航空自衛隊初のジェット・パイロットが誕生致しました。旧陸軍出身者が二名、旧海軍出身者が三名の計五名であり、この中には、その後、第十代航空幕僚長となられた旧陸軍出身の石川貫之空将がおられました。
 真珠湾奇襲攻撃の作戦参謀であり、後に第三代航空幕僚長となられた源田実空将の「結局、俺たちはゼロから出直すのだ。」というお言葉に当時の状況が偲ばれます。
 すなわち、米空軍から引き継いだジェット戦闘機、レーダーサイト及び指揮統制システム等、未経験のシステムを運用し、我が国の防空を任務とする航空自衛隊の構築は、まさにゼロからの出発であったと思います。
 そのような状況の中、航空自衛隊創立に関与した人々には、新しい組織に対する熱い思いと強い信念が漲 っていたと伺っております。
昭和三十三年四月二十八日、航空自衛隊は、千歳基地の第二航空団において、Fー86F戦闘機により、初の対領空侵犯措置のための待機に就きました。米空軍が十年余に渡って実施してきた日本の防空任務を、航空自衛隊が引き継ぐこととなったわけであります。
 東西冷戦の最中、国境を接する最も緊張度が高い、北の正面での任務開始でありました。
 この防空任務を全うするため、航空自衛隊は、厳寒の僻地や離島のレーダーサイト等において、厳しい天象気象を克服し、二十四時間態勢の警戒監視と昼夜を分かたぬアラート待機を継続し、はや四十六年の歳月が流れました。
 その航空自衛隊も、今や、約二百機のFー15戦闘機をはじめ早期警戒管制機、Fー2戦闘機、ペトリオットなどを装備し、戦闘機、練習機等を国産化し、さらには、空中給油機の導入や次期輸送機の開発も推進する等、世界の空軍と比較しても遜色ないまでに発展致しました。
 また昨年は、米空軍が実施するコープサンダー演習において、米空軍からの空中給油の支援を得たFー15戦闘機が、早期警戒管制機とともに、初めて太平洋を越え、アラスカの広大な空域で、米空軍と実戦的な訓練を実施致しました。

さて、冷戦が終焉した以降、国際貢献の重要性が高まり、我が国においては、平成四年、自衛隊としてはじめての国際平和維持活動となる、カンボジアへの派遣が実施され、航空自衛隊も空輸任務に従事致しました。
 以来、十二年間、モザンビーク、ルワンダ、ゴラン、ホンジュラス、東ティモール及びアフガニスタン等において、航空自衛隊は数々の国際貢献の実績を積み重ねてまいりました。
 特に、平成十三年十月、アフガニスタンにおいて米英軍が空爆を開始した直後、インドのデリーからパキスタンの首都イスラマバードまで難民救援物資の空輸を敢行致しました。この体験が地対空の脅威に対する防衛手段としての自己防御装置の装備化に繋がり、今回のイラク復興支援のためのCー130の装備に生かされたのであります。
今年一月、そのCー130が、遠くクウェートに向け小牧基地を離陸して行きました。
自己防御装置等、安全確保のための装備や訓練に際しましては、米空軍から多大なご支援、ご協力をいただき心から感謝致しております。
 現在、派遣部隊は、言語や文化、気候や風土、宗教等の異なる中東の地において、厳しい勤務環境の中、着実に任務を継続しております。既に、第三期要員への交代が行われておりますが、航空自衛隊としては、今後とも、十分に安全に配慮し、一瞬も油断することなく任務を遂行していく所存であります。
 その他にも、テロ対策特措法に基づく対米支援のための空輸任務や政府専用機による国賓等の輸送、在外邦人等の輸送、後方地域捜索救助活動、さらには大規模災害等への対応など、航空自衛隊の任務は益々多様化しております。

 この度、五十周年という大きな節目を迎えるに当たり、我々は、航空自衛隊の行動の本質とも言える「有事即応」の精神について、改めて考える必要があろうと思います。
「有事即応」の精神とは、事に臨んで、「迅速」、かつ「的確」に対応することであり、この精神は、航空作戦の特性に由来し、対領空侵犯措置の遂行を通じて育まれてまいりました。
 五十年の歴史において、先人が培ってきた、この「有事即応」の精神こそ、航空自衛隊として、まさしく将来にわたって継承し続けるべき伝統と考えております。

 今日、我が国を取り巻く安全保障環境は、大きく変化しつつありますが、航空自衛隊の本来任務が、我が国の防衛であることはいささかも変化するものではありません。
 しかし、新防衛計画の大綱の策定等も進捗する中、航空防衛力の特性を活用し、様々な課題に積極的に取り組んでいく必要があることもまた事実であります。
 航空自衛隊の任務環境は、今後一段と厳しさを増すことと思われますが、我々は、「有事即応」の精神の下、より「精強かつ健全」な組織として、国民の皆様の期待と信頼に応えていく所存であります。

 終わりに当たり、この五十年の間、厳しい社会風潮の中、崇高な任務に邁進した先達の図り知れないご労苦に対し、深甚なる敬意と感謝の念を表したいと思います。
 また、本日、ワスコー米第五空軍司令官の御臨席を頂いておりますが、航空自衛隊が歩んできた五十年は、まさに、米空軍との五十年でもありました。
 創立以来、米空軍よりいただきました格段のご理解とご支援に対しまして、衷心より感謝申し上げますとともに、航空自衛隊の発展のため、ご尽力賜りました関係各位に対しまして、重ねてお礼を申し上げ、式辞と致します。

 平成十六年六月二十七日
     航空幕僚長
      空将 津曲 義光


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