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1088号 (2022年12月1日発行) |
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雪月花 |
以前に書いた童謡「ふるさと」の歌詞の解釈について失笑を含めて何人かの読者からお便りをいただいた。「この歌を歌うと自然に涙が出て望郷の念が沸き上がります」(長野県・OB)とか「朝から晩まで山や川を走り回っていました。家で飼う兎は食用でした」(愛知県・OB)。「『蛍の光』にある『すぎのと』の解釈で高校のとき同級生と論争になりました」(市ヶ谷・事務官)。それらのお便りの中、「三木露風作詞、山田耕作作曲の『あかとんぼ』は大人でも解釈は難しいです」(岡山県・OB)とあった。早速スマホを開いてみると、「赤とんぼ」の研究がいっぱい。赤とんぼはなぜ竿の先に止まるのか、この竿は物干し竿か釣竿か、15歳で嫁に行ったねえやはどんな人物か、お里の頼りはどこからどこに来たのかなどなど。だが、筆者が以前から疑問に思っていた「おわれて見たのはいつの日か」のなぞは解けない。赤とんぼが悪童たちに追いかけられながら見たのだろうと筆者は思っていたが、作詞した露風がねえやに背負われて背中から見たのではないかとの説が多い。だが何を見たのか、まぼろし?それから先は想像しなさいということか。「あかとんぼ」の研究本も驚くほど出されており、同志社女子大学では熱心な研究を続けている。三木露風が幼少の時両親が離婚したという環境から推測して、ねえやは実の姉さんではなく子守りとして雇われていた姐さんで、おさとの便りもお里姐さんと解釈している。あまり追及していくと益々音階がくるってきそうだ。
(本紙 所谷尚武) |
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