太平洋戦争に敗れた日本はアメリカ一国の占領下におかれ、ドイツのようにソ連との分割占領にならなかったことは、日本の特筆すべき僥倖であった。もしソ連の軍事侵攻が北海道にまでに及んでいたら、日本は分裂国家となっていた可能性が高い。ソ連(ロシア)は占領した日本の北方領土を決して返さないことからもわかるように、もし北海道が占領されていたら北海道は今ロシア領だろう。
そして実際、ソ連は北海道占領計画をもっていた。ロシアに残されている公文書によると、スターリンは対日参戦(1945年8月8日)直前に、「サハリン(樺太)南部、クリル(千島)列島の解放だけでなく、北海道の北半分を占領せよ」と命じていた。日本は1945年8月14日の御前会議で太平洋戦争の終戦(敗戦)を決断し、同日ポツダム宣言の受諾を連合国に通告。8月15日終戦の詔勅を発し、全軍に対して戦闘の中止を命じた。連合国最高司令官マッカーサーも全米軍に対して攻撃中止を命じ、ソ連に対しても攻撃中止の要請をした。しかしソ連は攻撃をやめなかった。8月16日スターリンは米大統領トルーマンに文書を送り、「(1)日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島列島全土を含めること、(2)日本軍がソ連軍に明け渡す地域は北海道の北半分を含むこと。北海道の南北を2分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌まで通る線とする」と要求した。トルーマンは8月18日、千島列島の領有は認めるが、北海道の占領は拒否すると回答した。そしてこの日、スターリンは千島列島への侵攻を開始し、北海道の実効支配を念頭に入れた樺太作戦の本格化に踏み切った。スターリンは、日本が降伏文書に署名する日(9月2日)までに日本の領土を交戦の結果として実力占領する既成事実をつくろうとしていた。
ソ連軍は8月11日に南樺太占領作戦を開始。8月15日、日本のポツダム宣言受諾が布告されて停戦交渉が進められたが、ソ連軍は侵攻(南下)し続けた。8月23日頃までに日本の主要部隊との停戦が成立し、8月25日南樺太の占領が完了した。スターリンは8月22日にトルーマンに返書を送り、北海道占領は断念する旨を伝えている。千島列島の占領は、8月18日最北端の占守島への侵攻を開始し、8月28日までに択捉島まで占領。国後島を9月2日に占領し、色丹島を9月1日、歯舞諸島を9月3日に占領した。
スターリンはなぜ北海道占領を断念したのだろうか。それは何といってもトルーマン大統領がこれを拒否したからである。米国は原爆を開発して日本に投下し、圧倒的な力をソ連に見せつけ、戦後の日本支配に関し、アメリカの国益にならないソ連の要求など完全にはねつける力をもっていた。
もう一つ。ソ連軍が千島・樺太における日本軍の強い抵抗に遭って時間をとられ、スターリンは北海道占領を断念せざるを得なくなったと考えられる。8月18日未明、ソ連軍は占守島に攻撃を開始したが、日本守備隊の頑強な抵抗を受けた。北千島の守備に任じる師団長の堤中将は大本営の指示に従って停戦の準備をしていたが、この攻撃に対して自衛戦が必要と判断し、反撃に出た。戦いは激戦となったが、日本の優勢のまま停戦した。千島、樺太、北海道の防衛を統括する第五方面軍司令官樋口季一郎中将は、堤師団長の自衛のための反撃を認めた。ソ連のやり方を熟知する樋口司令官は、終戦後もソ連の行動如何によっては、自衛戦が必要になると考えていた。占守島で示された日本軍の強い抵抗力は、ソ連軍の千島列島占領のスピードを鈍らせ、スターリンの北海道占領計画断念判断に影響したと考えられる。
(令和4年6月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |