世界に先駆けて産業革命を興し、19世紀、世界に冠絶した国力と経済力を誇ったイギリスは、20世紀に入るとドイツやアメリカから追い上げられ、二つの世界大戦には勝ったものの、1970年代には世界から「英国病」といわれるほど衰退が顕著となった。1979年から11年間首相を務めたサッチャーは、国の長期衰退に歯止めをかけ、イギリス経済を復活させた。
サッチャーはイギリス経済の衰退の原因が、イギリスの社会主義政策にあると喝破した。「ゆりかごから墓場まで」をうたった手厚い福祉政策、歳出の肥大化、国有化された主要産業、全国炭鉱労働組合などの強すぎる労働組合、行きすぎた累進税率による高い所得税。こうした社会主義政策が国民の勤労意欲を減退させ、国に依存する体質を増長させ、民間の企業活力を削いでいる。サッチャーは政府を肥大化させる高福祉を抑制し、国有企業の民営化を進め、規制緩和を行い、民間企業が自由に活動できる場を増やし、経済の活性化を目指した。それは「小さな政府」を指向する「新自由主義」政策であった。
サッチャーは社会主義そのものを悪とみなした。共産主義や社会主義による運営の失敗を見て、今なお、「主義は間違っていなかったが、やりかたがまずかった」という者が日本にもいるが、サッチャーはそのような考えを否定し、確信をもって社会主義そのものが誤謬であるとした。サッチャーは言う。社会主義の運営は必ず膨大な官僚機構となる。官僚機構は一握りの人間の命令に従って動き、国民の大多数に選択の自由などの自由権のない、倫理に背いた制度である。自由主義経済の方に倫理的基盤がある。さらにサッチャーは、社会主義を支える情念に嫉妬があることを看破し、人間の劣情の嫉妬を根底にもつような社会主義に倫理的基盤はない、と言いきった。
サッチャーの倫理面からの社会主義批判は画期的なことだった。その頃イギリス社会はなお社会主義を掲げる労働党に、理想と「知的、倫理的」な優越性があると考える人が多かった。サッチャーはこれを否定し、保守党の自由主義に倫理的優位性があると明言したのである。
サッチャーが信念をもって主張し、実行した政策理念は決してイギリスで革新的なものではない。それはイギリスの最も良き伝統的倫理であった。宗教的に敬虔であり、勤倹力行、自助努力、正直、律儀をモットーとして生きる、百数十年も前にスマイルズが著わした『セルフヘルプ(自助論)』に登場する多くの人物の体現していた倫理に他ならない。
サッチャーの改革でもう一つ見逃せないものに、教育改革における「自虐的偏向史観」の是正がある。当時、学校でイギリス帝国主義を非難する歴史教育が行われていた。サッチャーはこれも英国病であると見て、イギリスの歴史における光をきちんと学習することを含め、自虐的偏向教育を改めた結果、イギリスで自国を誇りに思う人が増えた。
現在、日本経済は平成以降長期にわたって衰退し、世界で「日本病」という言葉も聞かれる。日本は「英国病」を克服したサッチャーになお学ぶものがあると私は思う。特に、自虐史観を改め、自国の歴史に誇りを取り戻したこと、そして改革の理念を外の思想に頼らず、自国の歴史と伝統に立脚したことなどを学ぶことができる。日本もイギリスに負けない改革の叡智を生むすぐれた歴史的伝統をもつと信じる。
(令和4年5月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |