防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2010年1月15日号
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静岡県自衛隊友の会
護国神社を清掃奉仕
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 静岡県自衛隊友の会(石上博道会長、会員約80人、うち自衛隊OB5人)は昨年12月6日、社会奉仕作業の一環行事として、県護国神社の新年各種行事が清々しく迎えられるようにと境内の清掃奉仕作業を会員有志26人の協力により実施した。
 当神社は、昭和16年に建立され、周囲は県内各地からの献木によって造られた人工林で覆われ、現在では、ふる里の照葉樹林として、広く県民から親しまれている森です。
 当神社には、明治維新以来各地で生命を国に捧げられた県内出身者の軍人、軍嘱7万6000余柱の「みたま」英霊がお祀りされています。
 近年、当奉賛会の方から、ご遺族の方々も高齢化となり、各種奉仕活動に足を運んでくれる方々が年々減少傾向にあり、何とか手立てを考えなければという話を聞き、当会としては、一昨年から奉仕活動をはじめました。
 祖国の安泰と国民の安寧を願い、お国の為に尊い命を捧げられた方々の慰霊と感謝の誠を捧げる悠久の森を荒廃させてはならないと思います。
 我々が、今日平和で豊かな生活を営むことができるのは、偏に尊い生命を捧げられた英霊のお陰であると信じます。
 これからは、悠久の森の美しさを末永く保全していくために、年に一度の奉仕活動だけでなく、あらゆる機会を通じ意義ある活動としてこれを定着化し、更に発展すべくみんなで協力して参加意識を盛り上げて参画していきたいと考え取り組んでおります。
 当日の作業は、昨夜来の雨も上がり、快晴で好天に恵まれ、境内の参道、側溝等の吹き溜まりに積もっていた沢山の落ち葉を収集すると共に雑草等を取り除き清掃を約2時間で終了することができました。
 作業終了後、参集殿に集い、神社側から御礼のことばがあり、お茶の接待を受け、年間行事等の話題に盛り上がり、会員相互の親睦を図ることができました。(事務局長・望月建夫)


法令順守の組織風土確立に向けて
《防衛監察本部、海上自衛隊》
コンプライアンス講習会開催
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 12月17日、防衛監察本部及び海上自衛隊の共催による「第4回地方コンプライアンス講習会」が海上自衛隊八戸航空基地(第2航空群司令山本高英海将補)で開催され、「コンプライアンスの浸透による組織風土の改善」をテーマに、慶應義塾大学商学部准教授の梅津光弘氏が、会場に集まった基地所属の職員約60名に対し講習会を行った。
開会に当たり防衛監察本部の櫻井正史防衛監察監から、「防衛監察本部は法令順守の観点から防衛省・自衛隊における職務執行が適正に行われているかをチェックしているが、法令順守に向けた組織風土を確立するためには、個々の職員に対して意識を喚起する自主的、継続的な取り組みが不可欠だ」と、この講習会を企画した趣旨について説明があった後、梅津光弘准教授が「ケースメソッドで学ぶコンプライアンス」と題する講習会を実施。講師は受講者を6人編成の9班に分け、事例を与えて班ごとに討議させるという、「ケースメソッド」と呼ばれる手法で講習会を進めた。これは、コンプライアンスを防衛省・自衛隊に浸透させるためには、実際に起こった身近なケース(事例)をもとに受講者同士でディスカッションさせ、自分であればどのように対応するのか、当事者の立場で考えることが非常に有効である、との講師の指導方針によるもの。受講者は始めとまどっていたが、次第に活発な討議が行われるようになり、講師から与えられた各事例の解決策を積極的に導き出そうとしていた。
この講習会を企画した担当者は「防衛省・自衛隊の職員に対する啓発活動の一環として、今後も部外の有識者等による講習会を四半期に1回の割合で開催したい」と抱負を語った。


彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校 シリーズ(95)
陸軍軍医総監の肖像 (6)
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 昭和3年(1928)12月から昭和9年(1934)3月まで、新潟出身の合田平軍医総監が第11代医務局長を拝命します。
 合田軍医総監は、東京帝国大学医科大学を卒業後、明治36年(1903)に一年志願兵として近衛歩兵第一連隊に入隊しました。
 翌年、折りしも勃発した日露戦争に際し、陸軍二等軍医として姫路予備病院付に、翌年には第二軍軍医部部員として奉天戦に参戦しています。
 凱旋後は東京第一衛戍病院付兼、陸軍軍医学校教官から、東京帝国大学大学院卒業を経て、奉天赤十字病院長となります。
 その後、再び陸軍軍医学校教官、陸軍省医務局課員を歴任しました。
 衛生材料、脚気病、毒ガスなどの調査委員を命ぜられ、軍事調査、口腔勤務者身体検査規則の制定、軍隊内務書の改正などに参加しています。
 その後、シベリア出兵時には一等軍医正で医務局衛生課長に任ぜられ、近衛師団軍医部長、東京第一衛戍病院長を経て、昭和3年(1928)には陸軍軍医監、陸軍軍医学校長を拝命します。
 その年の日華事変では、派遣要員の差し出し、衛生材料の製造補給、携帯口糧の栄養及び吸収試験、戦地用各種図書の編纂などを執り行います。
 同年12月、軍医総監となり、医務局長に進みます。昭和6年(1931)の満州事変では複雑・多岐に亙る医務業務の傍ら、中央衛生会委員、保険衛生調査会臨時委員などを兼務しています。
 明治期から、昭和初期にいたる、全ての戦役で業績を上げた軍医だったのです。昭和9年(1934)に後進の小泉に道を譲り予備役となりますが、その直後に59歳の若さで亡くなりました。
 彰古館には作者不詳ながら、医務局長時代に描かれた肖像画が残されています。
 後を受けた第12代医務局長の小泉親彦軍医総監は、東京帝国大学医科大学を卒業後、明治42年(1909)に二等軍医として陸軍軍医学校に学び、軍医学校教官、陸軍技術審査部御用係、臨時毒ガス調査委員、衛生材料調査委員などを兼務しており、多彩な一面が窺えます。
 大正8年(1919)には、第一次世界大戦直後の欧州衛生視察を実施、連合国軍事委員として敗戦国ドイツに駐在しています。
 大正10年(1921)には医学博士となり、軍隊胸膜炎調査会委員、翌年には農商務省嘱託として産業衛生の調査研究、さらに翌年、陸軍科学研究所所員を兼務しました。
 昭和4年(1929)には、陸軍軍医学校を行幸した昭和天皇の命により、表御座所において天皇皇后両陛下に対し、「被服地質の衛生学的考察」について御進講申し上げました。ご質問は多岐に亙り1時間50分の長時間に及んだとのことです。
 昭和6年(1931)には再び欧米各国の軍事衛生科学を見聞し、翌年には近衛師団軍医部長兼陸軍軍医学校教官を拝命しています。
 昭和8年(1933)、陸軍軍医学校長に任ぜられると、教育綱領の改正、診療教育の配当時間の増加、ロシア語・中国語教育、剣術・馬術の正科教育、剣術道場の設置、各種研究の推進などの教育システムの刷新、向上を図ります。
 昭和3年には陸軍軍医総監、医務局長として、これらを国策レベルに引き上げるよう奮闘します。
 そのほか、日本衛生学会、生化学会、生理学会、学術振興会などの幹部として多方面に活躍しています。
 昭和13年(1938)には全国民の体格改善、健康保険の加入などを進言し、厚生省を発足させます。
 昭和15年(1940)から昭和19年(1944年)までの厚生大臣というのが、小泉軍医総監のもうひとつの顔だったのです。
 残念ながら小泉軍医総監の肖像画は残されておらず、終戦時に自害されているため、その実像は不明な点が多い軍医総監なのです。昭和天皇への御進講のレリーフだけが現存しています。

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