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2009年11月15日号 |
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「古関裕而特集」オータムコンサート開催 |
防衛省 |
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9月30日、防衛省A棟2階講堂において、陸上自衛隊中央音楽隊オータムコンサートが行われた。このコンサートは、陸上自衛隊中央音楽隊(新隊員後期課程学生29名含む)が、海上自衛隊東京音楽隊3名の支援を受け、隊長以下74名で実施した。
コンサートでは、軍歌、隊歌などを中心に5000曲を作曲した古関裕而の生誕100周年にちなみ代表作を中心に全10曲で構成され、コンサート終盤では、今秋、全国の部隊へ配属予定の新隊員後期課程学生全員による「六甲おろし」が披露されるなど、市ヶ谷駐屯地隊員等約170名を魅了した。
鑑賞した隊員は、「吹奏楽に馴染の薄い我々でも高校野球やプロ野球球団の応援歌、軍歌、隊歌などの馴染のある音楽を聴くことができ、心が和んだ」「一見、ジャンルの違う歌が全て一人の人によって作曲されていたことに驚いた」など、感想を語っていた。
企画にあたって
毎年恒例の“オータム・コンサート"。今年は日本を代表する作曲家、古関裕而氏生誕100年ということで、彼の音楽を特集した。
今回はとくに、秋にそれぞれの勤務地に赴任する新隊員教育隊29名の精鋭を含めての中央音楽隊の演奏、タクトをとったのは隊長の武田晃1等陸佐と新隊員教育科の担任教官である今井裕樹3等陸尉。
幕開けは、夏に盛り上がる全国高校野球大会の大会歌「栄冠は君に輝く」。今年のテレビ放映ではこの歌が熱唱される中、作曲者の生誕100年を伝え、その功績を讃えていた。
続く「スポーツ・ショー行進曲」は、NHKスポーツ番組のテーマ音楽として広く知られている作品。音楽が流れると聞いている者、それぞれの青春が蘇ってくるようだ。この曲は、現在でも番組テーマ音楽として健在。
さて、古関裕而の作品は5000曲におよぶ歌が中心である。その中から被爆者として過酷な体験を下に書かれた長崎医大の永井隆博士のベストセラー〈長崎の鐘〉〈この子を残して〉を基にサトウハチローが作詞した詩に古関が曲をつけた「長崎の鐘」。この曲を小林正雄准陸尉の歌唱で演奏した。想いを込めて歌う小林准尉の目には涙がにじむ。
戦時中に作曲した名作の数々からは、予科練募集PR映画〈決戦の大空〉の挿入歌として作曲された「若鷲の歌」を本日ゲストとして出演してくれた海上自衛隊東京音楽隊の川上良司2等海曹の歌唱で、また、海上自衛隊歌「海を行く」を川上良司2等海曹、満島一郎3等海曹、三宅由佳莉2等海士の3名が明るく歌った。しっかりとした歌唱力と清々しい白い制服に聴衆は盛んな拍手を送っていた。快く協力をしてくれた3隊員に感謝。
意外にも古関裕而氏が自衛隊のための歌を多数作曲していることはあまり知られていない。今回はその中から、自衛隊創立10周年を記念した「この国は」「君のその手で」、陸上自衛隊20周年を記念した「栄光の旗のもとに」を3曲メドレーで演奏する。一般ではなかなか聞けない自衛隊歌の数々。珍しい機会ということで、この日は古関裕而氏の長男正裕夫妻、また生前、古関氏と関係の深かったコロンビア・レコードとNHKの関係者が会場に駆けつけてくれた。初めて聞く、その美しいメロディーの数々に古関夫妻、関係者は大いに満足をしていた。
様々な歌を作曲してきた古関氏は、早稲田大学応援歌「紺碧の空」や慶応義塾大学応援歌「我ぞ覇者」などライバル同士の作品も書いているが、プロ野球の球団のためにも「巨人軍の歌〜闘魂こめて」「大阪タイガースの歌」「ドラゴンズの歌」と昭和25年のセ・リーグ創成期の4球団中3球団の歌を書いている。今回はその中からファンが熱狂して歌う「大阪(阪神)タイガースの歌〜六甲おろし」を新隊員教育隊の熱い合唱を交えて演奏。曲の持つ力感が若々しい歌声で再現されるとコンサートは最高潮に達した。
コンサートの最後は、史上空前の94カ国5600人の若人によって繰り広げられたアジア初の世紀の祭典〈第18回東京オリンピック〉の入場行進曲「オリンピック・マ―チ」。
作曲家自ら“会心の作"と言わしめた「オリンピック・マーチ」を昭和39年10月10日に演奏したのは陸・海・空の自衛隊音楽隊を中心とした565名からなる大合同バンド(陸上自衛隊音楽隊は210名の参加)であった。爽やかな秋空の下「心も浮き立つような古関裕而作曲のオリンピック・マーチが鳴り響きます」とのアナウンス。開会式を衛星中継で観た世界各地から「この行進曲の作曲者は誰か?」との問い合わせが組織委員会に殺到したという話は有名。以来、日本を代表するマーチとして世界各地で演奏されている。
「オリンピック・マーチ」が講堂に華やかに鳴り響いたとき、聴衆の心の中に去来したものは何だったのであろうか。2度目の東京オリンピックに想いを馳せたのか(開催地発表の前であった)、あるいは昭和39年の高度成長期を懐かしんだのか、演奏が終わると万雷の拍手が起こった。
国民的作曲家の作品で“昭和を駆け抜けるコンサート"は大成功に終わったが、今回の企画は、すべて武田隊長の発案によるものである。代表的な作品を網羅したこと、珍しい自衛隊の作品を演奏できたこと、また海上自衛隊音楽隊と新隊員教育隊とのコラボと、充実したコンサートが実現できたことが何よりであった。
終演後に「初めて聞けた父の美しいメロディー、本当に素晴らしい体験をさせていただきました」と語った古関正裕氏の言葉がすべてを語っていると思う。 (中央音楽隊・福田准尉) |
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彰古館 往来 |
陸自三宿駐屯地・衛生学校 |
<シリーズ93> |
陸軍軍医総監の肖像(4) |
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森林太郎軍医総監は、一般的には陸軍の軍医としてよりも、文学者森鴎外のイメージがあります。
明治10年(1877)、弱冠15歳で東京帝国大学医学部に入学した森を、シュルツ教授は、故意に成績を低くしたと森は言っています。
このままでは政府からドイツ留学の指名を受けられる可能性が無いと、落胆する森を陸軍に招いたのは、同級生で陸軍依託学生第1期生の小池正直でした。
小池は「優秀な男がいるので、ぜひ軍医として採用して欲しい」と、石黒忠悳一等軍医正(兼文部省御用掛、東京帝国大学医学部綜理心得)に漢文で紹介状を書いたのです。
石黒がこれを受けて、森は明治14年(1881)12月、軍医副(中尉相当官)に任官します。
しかし、その後の二人は折り合いが悪く、特に脚気の治療法については見解の相違がありました。
ドイツの最新の細菌学を修めた森が「脚気の原因は細菌によるもの」としたのに対し、小池は海軍同様、麦飯の栄養素で予防できるという考えでした。
小池は東京帝国大学医学部卒業時の成績が森よりも下位であったにも拘らず(森は28人中8位、小池は10位)、陸軍では常に上位におり、森には納得がいかなかったようです。
先にドイツ留学を果たしたのも、陸軍軍医学校長も、陸軍軍医総監になったのも小池が先でした。
小池は明治31年(1898)第7代医務局長になります。
二人の確執は根強く、明治37年(1904)の日露戦争時には野戦衛生長官の小池と、第二軍軍医部長の森とはそりが合いませんでした。
彰古館所蔵の第二軍衛生報告には森の直筆の報告書が収められていますが、そのあて先は「野戦衛生長官小池正直殿」です。プライドの高い森としては屈辱的な報告だったのです。
この小池正直の肖像画は、岡田三郎助が揮毫しています。明治42年(1909)に描かれた、この肖像がについて森の日記にも残されており、森が岡田を紹介したとも考えられます。陸軍省医務局長を降りる小池に対して、同期であり、上司であり、ライバルであった小池に最大級のはなむけをしたのでしょう。それは自らが医務局長になるために避けては通れないけじめだったのです。 |
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