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2009年8月15日号 |
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「今後の施策検討に活かす」 |
岸政務官が矢臼、札病を視察 |
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岸信夫政務官が7月11、12の両日、陸上自衛隊矢臼別演習場と自衛隊札幌病院を視察した。
11日、岸政務官は矢臼別演習場を訪れ、第10師団が実施している平成21年度協同転地演習を間近で視察するとともに10師団長から演習の状況や展開する部隊などの説明を受けた。視察後、岸政務官は「強靱な部隊を育成すべく練成訓練に励む部隊及び隊員の姿を目のあたりにすることができたことは、非常に有意義だった。また、隊員と親しく接することができて大変嬉しかった」とコメントした。
次いで翌12日、岸政務官は自衛隊病院等の在り方検討委員長及び防衛省自殺事故防止対策本部長であり、衛生業務とは関係が深いこともあって札幌病院を精力的に視察した。この日、病院長からメンタルヘルスなどの各種施策やインフルエンザ対応のための説明を受けたあと、移転検討先についても直接視察した。岸政務官は「今後の施策を検討するために、現場を確認できたことは有意義だった」と感想を語っている。 |
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空自浜松広報館(エアーパーク) |
ナイトオープン、地上展示、救難訓練… |
1年を通してイベント開催 |
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航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)では7月29、30の両日、ナイトオープン(夜間開館)を行った。これは、通常の開館時間は午後4時までのところを午後8時まで延長して開館するもので、夏のこの時期に毎年行われている人気の催しである。
ナイトオープンでは、展示航空機や建物をライトアップして、日頃と違うエアーパークの雰囲気を醸し出すとともに、第1術科学校保有のF―15戦闘機及びF―2戦闘機の地上展示のイベントを実施した。
また、浜松基地では、浜松救難隊が夜間飛行訓練などを行い、間近で夜間飛行訓練や救難訓練の様子を来館者に見てもらった。
救難ヘリコプターや救難捜索機の夜間飛行訓練、ホバリングする救難ヘリコプターによる救難訓練の様子、暮れゆく中で翼端灯などの機外灯を点滅させるF―15、F―2戦闘機を間近でみられるとあって、多くの来館者が格納庫前のエプロン地区に出て、写真撮影をしたり整備員に話しかけたりと、ナイトオープンならではの雰囲気や展示を大いに楽しんでいた。
特に29日は、航空自衛隊最後の1機となり、まもなく引退の時期を迎えるV―107救難ヘリコプターの救難訓練も行われ、時折降る雨にもかかわらず訪れた来場者は、熱心にカメラのシャッターを切っていた。
また、来場者の目の前で、E―767早期警戒管制機が盛大な水しぶきを上げて迫力満点の着陸を披露するという願ってもない場面にも恵まれた。
航空自衛隊浜松広報館では、年間を通して様々なイベントを計画している。8月は、18日(火)〜27日(木)の間で、土日を除き展示格納庫前エプロン地区においてT―4中等練習機の発着訓練を予定している。普段、基地の中でしか見ることのできない航空機の発進前及び着陸後の操縦者等と整備員の諸活動の様子を間近で見ることができる。
なお、今後のイベントスケジュールなど詳しいことは、浜松広報館ホームページまで直接お問い合わせ下さい。 |
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彰古館往来 |
陸自三宿駐屯地・衛生学校 |
<シリーズ90> |
陸軍軍医総監の肖像(1) |
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明治4年(1871)7月5日、東京兵部省内に海陸軍軍医寮が発足します。これが国軍の衛生部門の始まりです。そのトップが佐倉順天堂蘭学塾2代目の松本良順(後に順に改名)です。この当時は「軍医頭(かみ)」と呼ばれていました。
同年12月27日には軍医頭を少将相当官とする旨が定められています。
松本が、林洞海の長男、林紀(はやし・つな)に道をあけた明治12年(1879)12月15日、軍医頭は「軍医総監」に改称されました。
彰古館には、松本軍医頭、林軍医総監の肖像画が収められています。
揮毫者は、明治初期の肖像画家、風景画家として高名な山梨県出身の洋画家「中丸清十郎」です。
中丸は、明治15年(1882)に、靖国神社遊就館の依頼で陸海軍の将官を多数描いています。現在、遊就館にはリストが残っておりますが、肖像画そのものは1枚も現存していません。彰古館の2枚は、明治42年(1909)に遊就館から陸軍軍医学校に移管され、現在、彰古館に伝わるもので、50号(約90×120cm)という大作です。特に第2代軍医総監林紀は、拝命から僅か3年後にフランスのパリで客死しており、その風像を伝える貴重な絵画です。
松本が再び第3代軍医総監を務め、第4代の橋本綱常(後に初代日赤中央病院長)の肖像は残されていません。
第5代軍医総監の石黒忠悳も肖像画は無く、陸上自衛隊OBの吉田栄一氏揮毫の肖像が展示されています。
かかる明治衛生制度創設の立役者、石黒忠悳の肖像画が無いのは不思議です。
実は、明治45年(1912)3月7日、陸軍軍医学校に銅像が建立されているのです。
当初は明治42年(1909)4月の陸軍軍医会の席上で、石黒70歳の記念にと計画されたものでした。第7代軍医総監の小池正直、順天堂出仕の佐藤進軍医総監、同じく菊地常三郎、同じく森林太郎など40名以上の発起によるものです。
しかし、肝心の石黒が難色を示します。「初代軍医総監の松本先生の銅像が、まだである」と。
発起人たちとの話し合いの中で「松本先生と両方なら喜んで承知する」と石黒。さらに「松本先生の分は私が負担する」とまで言い出します。それを聞いた佐藤進(松本とは叔父、甥の関係)、松本を良く知る者たちも賛同し、松本・石黒の銅像製作が決定します。
日本の美術界に深い関わりを持つ森林太郎軍医総監が、石黒と同郷(新潟)で、ベルギーから帰朝したばかりの新進気鋭の彫刻家、武石弘三郎に依頼をします。
武石は陸軍の委託を受けるのは名誉であるが、活躍する年代の違う二人を表現することは難しいと考えます。そこで「初代軍医総監松本順の胸像の足元にたたずむ第5代軍医総監石黒忠悳というデザインで完成したのです。
石黒は「まだ生きている自分の銅像は、今の自分の行動を監視しているようなもの」と述べています。
大東亜戦争時の銅物資の供出で、銅像自体は現存していませんが、当時撮影された記録用の大判の写真が、近年発見されています。
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