日露戦争は近代戦争の幕開けとなった戦争であり、各国の見学武官は、多くの教訓を母国に持ち帰ります。そして、ちょうど10年後に、第一次世界大戦(1914〜18)が勃発したのです。
当初は欧州を中心とした戦闘です。しかし、日本がお手本としていたドイツを敵に回すことになり、陸軍省医務局は、留学先を昔馴染みのイギリスやフランスに切り替えて対応します。
当時、軍部出身者として唯一の日本赤十字社の社長となっていた石黒忠悳軍医総監は、英・仏に看護婦を派遣して負傷者の救護を開始しています。
その後、戦火は極東(シベリア)に飛び火し、日本も青島などで小規模の戦闘を経験する事になります。
この時、石黒は酷寒の地に残されたポーランド孤児の救済活動を命じ、数百名が日本に収容され、母国への帰国を果たし、国際的にも高い評価を受けます。
この戦争でドイツ軍が使用したのは、日露戦争の直前に制式となり、第二次世界大戦でも主力となる口径7・92mmのモーゼル98です。
日本側は、日露戦争後に三十年式歩兵銃を改設計した、やはり第二次世界大戦までを戦うこととなる有名な三八式歩兵(6・5mm)銃を使用しました。
どちらも完成の域にあった傑作銃ですが、弾薬も日露戦争後に画期的な進化を遂げていたのです。
弾丸を命中させるには、弾を真っ直ぐ飛ばせば良い、それを追求すると、初速を高くするという結論に至ります。理論上は、口径が小さいほど初速が高くなり、小口径弾が採用されました。
そして次なる進化、弾薬の歴史での大変革が「尖頭弾(=S弾)」の採用です。
ドイツ、フランスでほぼ同じ時期に開発された、先端が尖った弾頭は、空気抵抗と飛行中の衝撃波などを解析し、より高初速の弾薬として完成したものです。
この小口径の尖頭弾が初めて使用されたのが第一次世界大戦でした。
日本での尖頭弾の開発は明治40年(1907)から43年(1910)にかけて実施されていますが、その試験に臨床の立場から立ち会っていたのが、小口径弾の治験記事を著した芳賀栄次郎軍医監でした。
彰古館には、下志津や戸山学校で実施された尖弾射撃試験時の報告書が多数残されています。
尖頭弾の採用によって、質量の小さな6・5mm弾でも、貫徹力の増加がはっきりと確認されています。
第一次世界大戦では、航空機、戦車、毒ガスなどの化学兵器など各種の新兵器が初めて実戦に投入されていますが、個人携行火器も、初めて尖頭弾が戦場に現れたのです。
彰古館には、世界で初めての尖頭弾による症例の記録とともに、実際に負傷者から摘出された摘出弾も残されています。
小口径、高初速の尖頭弾による被害は甚大で、もはや「小口径弾は人道的な弾薬」と位置付けた日清戦争時の見解と、全く異なる威力を示しています。
彰古館の医学史料は、図らずも兵器の発達をも示す史料でした。当時、戦争と医学の進歩は、まさに表裏一体だったのです。 |