ロシアとの関係は、近代国家日本の安全に影響する関係であり続けている。北方領土問題の解決の見通しはない。今年、ロシアがウクライナ戦争を起こし、日本も西側の国としてロシアを非難、制裁を課し、日露関係は悪化している。
ロシアは18世紀末には北海道に来航し、通商を求めたりしていたが、幕末の1855年日露両国間で初めて条約が結ばれ(「日露和親条約」)、国境が定められた。この条約は、日露の国境線を択捉島とウルップ島の間に置き、それより南を日本領、北をロシア領とした。また、樺太(サハリン)は国境を設けず、これまで通り両国民の混在の地とすると定めた。その後「千島樺太交換条約(1875)」、「ポーツマス条約(1905)」で国境線の変更があったが、太平洋戦争末期(1945)にソ連が日本に宣戦布告、ポツダム宣言を受諾して停戦した日本になお侵攻し、樺太全島、北方領土四島(択捉、国後、歯舞、色丹)を含む千島列島を占領した。その内、北方領土四島は固有の領土であるとして日本は返還を要求しているが、ロシアは四島とも第二次世界大戦で正当に獲得した領土であるとして、返還に応じていない。日本が四島を固有の領土と主張する根拠に1855年の「日露和親条約」があり、この条約の歴史的意義は大きい。
「日露和親条約」は、来航した露国使節プチャーチンと幕府の勘定奉行川路聖謨との死力を尽くした交渉結果として成立した。樺太についてプチャーチンは、樺太島の南端アニワ湾までは日本領だが、それより北はすべてロシア領だと主張。川路はアニワより黒竜江付近まで日本領だと応酬し、その根拠として過去日本人による幾つかの調査結果をあげた。択捉島の帰属についてはプチャーチンが択捉島の日露折半を提案したが、川路は択捉島が日本の領土であることを一歩も譲らなかった。やがてプチャーチンは択捉島の日本帰属を認め、樺太についてはこれまで通りとして国境を定めないことで決着した。なおこの時ロシア本国は樺太の占領計画をもっていたこと、そしてウルップ島以北がロシア領で、択捉島は日本領でよいとの見解が本国政府より示されていたが、プチャーチンは交渉で択捉島の権利を主張します、と本国に伝えていたことがわかっている。
川路聖謨の高い見識と人間力について、プチャーチンの秘書ゴンチャロフが絶賛している。「彼の知性には良識があり、見事なまでに熟達された弁論を発揮して我々と対立しようとも、その一言一句、癖や物腰でさえも、彼が熟練された人間であり、思慮のある知性と洞察力を備えていることが見て取れる」と。
幕末の幕府は決して頑迷固陋でなく、開明的だった。老中首座阿部正弘は開明的な逸材で、彼は身分、家柄に関係なく実力本位で次々と幕府要職に人材を登用した。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登り詰めた川路聖謨はこうして登用された幕府人材の典型である。一歩あやまれば西洋列強に蹂躙される日本の困難な時期に、独立を維持して維新後の飛躍を準備したのは、川路のような人材を擁する幕府だった。
プチャーチンの以下の本国政府への報告の断片が、当時の日本人の高い民度を表わしているだろう。「ほかの旅行者が記しているように、日本滞在中には、日本人は極東の中で最も教養高い民族であると断言できるほどの機会が十分ありました」
(令和4年8月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |