防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   989号 (2018年10月15日発行)
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HOME's English Class
(防衛ホーム英語教室)
ザット サムズ イッ タップ
That sums it up!
要点は、そんなところですね!

Hi! How are you doing? 皆さん、お元気でしょうか。関東では秋晴れが続いて、気温も上昇しています。衣替えやクールビズの終了後も、半そでが必要ですね。最近は、気温の日較差が大きく体調を崩しやすくなっています。こまめに着替えるなどの工夫が必要です。健康に留意して、秋を存分に楽しみたいものです。

 今回の表現は、"That sums it up!"「要点は、そんなところですね!」です。sumは、「総計、合計、計算」のほかに「要点」という意味でも使われます。ここでは、動詞で「要約する、要点を述べる」という意味で使っています。ミーティングの最後などに、締めの言葉で一言いう時などに、使えます。話をしていて、結論のあとに「まあ、そんなところだよ」と相手に念おしすることもできます。フレーズの中のitは、それまでに相手と話したこと全体を指しています。いろいろなところで使える表現ですので覚えておくと重宝します。フレーズが口からさっと出るように練習してみてください。

 通勤電車などで鼻かぜの人を良く見かけます。冒頭にも書きましたが、気温の日較差が大きく、朝晩は冷え込み、日中は25度以上になるような日ですと、身体も対応するのが大変です。体調を崩す原因にもなります。薄着に一枚羽織るものをもって外出するも一案です。秋もいよいよ深まっていきます。一日一日を大切に、陽気でストレスの少ない日々をお過ごし下さい。それでは、皆さん。See ya!
<スワタケル>


「頑張っています」新しい職場
活躍するOBシリーズ
有限会社 今日和 山口 和人
山口氏は平成29年10月に海上自衛隊航空補給処航空機整備課を1海曹で定年退官。53歳

 私は平成29年10月23日、海上自衛隊航空補給処航空機整備課での勤務を最後に定年退職し、同年10月24日から千葉県木更津市に所在する「有限会社 今日和(きょうわ)」にて勤務しております。
 再就職活動の際には何をしてよいのかわからないことばかりでした。そんな時に航空補給処就職援護隊員に履歴書など、就職に必要な書類作成の指導をしていただきましたが、書類提出が遅れたり、勝手が分からず無茶な条件を希望したりしたこともありましたが、就職援護隊員の尽力により弊社を紹介していただきました。
 私は現在、高炉サブグループの環境班という部署に所属しています。主な業務は、構内や側溝に溜まった粉塵をバキューム車により清掃することです。朝8時15分にミーティングがあり、その日の作業内容等を確認し、各現場へ移動して作業します。バキューム車で作業を行う場合は、安全対策として、吸引作業中にホースが暴れて人に当たって怪我をしないよう、立入禁止の処置をします。入社当初は、バキュームホースと吸口(粉塵を吸うための筒先)が非常に重く感じ、吸引時にはホースが暴れるため、作業に慣れるのに苦労しました。また、サウナのような現場での作業もあり、元々汗かきの私にはより一層辛く感じました。ベルトコンベアーの下に積もった堆積物を除去する作業では、土のう袋に堆積物を詰めて運び出す過程で腰を痛めることもありました。
 現在では、これらの作業にも慣れ、自らの作業に必要な機材等の準備も行えるまでになりました。
 最後になりますが、これから定年を迎える皆様、再就職の準備は早めにしっかりと進めて下さい。準備の中には、履歴書などの書類作成は当然含まれますが、もっと大切なのは健康管理です。体調を崩し仕事を休めば、その日に予定されていた仕事を変更することになり、迷惑をかけてしまうということを理解して下さい。私も入社当初は苦労しましたが、健康面で不安がなければ頑張っていけるものだと思っています。再就職に向けて皆様頑張ってください。

近間から遠間から
桑沢 慧
岡崎サロン

 地下鉄神保町駅近くにある博報堂本館の顧問室と続き部屋の応接室は、100名を超える人で賑わっていた。受付で渡された出席者名簿に目を走らせた私は、多くの著名人が名を連ねているのに驚き、大勢の人山をあらためて見渡した。すぐに安倍晋三・内閣官房副長官(現、総理)や、フジテレビの黒岩祐治キャスター(現、神奈川県知事)を見つけた。他にも衆参の国会議員、各省庁の官僚、各国の在日大使館員、大企業の役員、テレビ、新聞、出版などのジャーナリスト、大学教授、そして陸海空の自衛隊高級幹部とOB、在日米軍等々、様々な分野の人々が一堂に会していた。その人だかりの中心で談笑する老紳士が目に留った。少し気難しい人かと思っていたので、私にとっては意外な朗らかさだった。皆から親しみを込めて「大使」と呼ばれているその人物は元駐タイ大使の岡崎久彦。この異業種交流会「岡崎サロン」を主催する岡崎研究所の所長で、博報堂特別顧問でもある。 2000年を皮切りに私は岡崎サロンに数回出席する機会があった。最初に岡崎を知ったのはセキュリタリアン誌1992年11月号のインタビュー記事だった。防衛庁(当時)に出向し参事官を務めた経験のある彼が、外務省を退官するに当たり自衛隊への「贈る言葉」を語っていた。
 「敗戦国の外交官としてスタートし、日本のあるべき国際的地位を探さねばならなかった。それが外交官人生の全て」とか「正確な情勢判断の必要から戦後民主主義を批判するのが私の役目」「情勢判断にはいかなる先入観、偏見、希望的観測も入れずに真実だけを追う」など、戦後日本のかじ取りの一端を担った外交官としての憂いと真剣さが滲む言葉を印象的に覚えていた。加えて、写真の気難しげな顔がいかにも冷徹な頭脳の持ち主に見え、国士を多く輩出した旧帝大の息吹が残っていた時代の、本物にして最後のエリートに思えた。
 岡崎久彦は1930年4月大連生まれ。祖父の邦輔は農林相を務めた立憲政友会の重鎮で、幕末に坂本竜馬の海援隊でも活躍した明治の外相、陸奥宗光の従兄弟でもあった。陸奥宗光が親類であることが誇りだった岡崎は、幼少の頃から外交官になる、と口にしていた。旧制府立中学三年生だった敗戦直後、父の友人たちが「米英に対する復讐戦まで何年かかると思う」と議論をしていた際、一人が「それをしては絶対にいけない。ドイツを見ろ。二度立ち向かってやられている。だからもうアングロサクソンと仲良くする以外にない」と答えていたのが胸に響き、以来、アメリカとの同盟論を堅持し続けることになる(国際情勢判断半世紀・育鵬社刊)。49年、新制大学になった最初の入試で東京大学へ入学し、対日講和条約が発効した52年に外交を再開した外務省に入省。日本の独立が回復し外務省も意気盛んだったが、一方で7年間の占領中に戦後民主主義の左翼的傾向が浸透しており保守の岡崎との間に摩擦が生じた。その後、英ケンブリッジ大学への留学を経て国際連合局に勤務し情報分析の専門家となり、アメリカ、フィリピン、韓国などの日本大使館にも勤めた。78年からの三年間は防衛庁に出向し、国際関係担当参事官として国会答弁に立つこと300回。タカ派の論客として注目され、彼の下へ政財界などから人が集うようになった。
 「21世紀の日本の安全を確保するには日米同盟を盤石にすることが不可欠。そのためには米国にとっても同盟が不可欠でなくてはならない。米艦に対する攻撃に対し同盟国として反撃できるようにして、自衛隊がシーレーンのパトロールに加われば東南アジア諸国も含め日本は大きな信頼を得ることができる」との信念に基づき、安倍総理のブレーンとして集団的自衛権の行使容認へ向け積極的に発言した。2014年7月1日、閣議で行使容認が決定するのをテレビで見届け「防衛庁出向以来、戦ってきた目的が達成された」と感無量の涙を溜めていたという。約四ヶ月後、心残りがなくなったかのように、この世を去った。

【お詫びと訂正】
 本コラムに間違いがありました。誤‥「財務処理」、正しくは「残務処理」です。訂正をするとともにお詫び申し上げます。
  
桑沢 慧(くわさわけい)
 明治神宮武道場至誠館剣道科出身のフリーライター。これまでセキュリタリアン(防衛弘済会)、歴史群像(学研)などに執筆。


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