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2010年2月15日号 |
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「揺るがぬ心求めて」 |
練習員、坐禅で武士道学ぶ |
《横教》 |
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横須賀教育隊(司令・飯尾俊政1海佐)は12月24日、第352期練習員の鎌倉史跡研修を行った。これは日本の歴史などを見つめ直し教養を深めること、また修業前の思い出の一つとなるよう毎期実施されている。今回は伝統ある建長寺の厚意により、練習員に対しいま一度我が身の存在を確かめ、安心立命を修養する事を目的に坐禅修行を実施した。
建長寺は鎌倉幕府第5代執権北条時頼が宗の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて1253年建立した。鎌倉五山の第1位に位する臨済宗の寺で「けんちん汁」の発祥地としても知られている。あるものを生かしきる禅の精神を具現化した料理という事実を知り、みな驚いていた。
当日は天候に恵まれ暖かかったが本堂に入り、坐禅を組み始めるとさすがに寒さが身にしみた。坐禅は「自分のためにするもの。自分を見つめ直すため」とされ、腹式呼吸をし、呼吸にあわせて一から十まで数えるように指導を受けていたが、只数えるのも難しく、また同じ姿勢を続けていることにも疲れ色々と雑念が浮かんできたことで、自分自身の弱い部分を見付けることができ、部隊において一人で頑張っていく上で参考になったと、坐禅後練習員達は話していた。
坐禅後、特別に練習員の防人としての活躍を期待して「けんちん汁」が用意されていた。ここで本場の「けんちん汁」が食べられるとは思っていなかったので、練習員達は喜んで最後の一滴まで食べさせてもらった。
その後、「小町通り」で、グループ行動となり自由に散策を楽しんでいた。帰省の際のお土産などの買い物など、わずかな時間を有効的に使い有意義な時間を過ごした様子であった。
今回の研修を通じ、短時間ではあるが日本の歴史、文化、禅の精神に触れたことにより、改めて日本のすばらしさを見つめ直すきっかけになった。(1海曹 君塚昌広) |
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神戸大学法学部学生27人が海自岩国航空基地を見学 |
《31空群》 |
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海上自衛隊第31航空群(群司令・小松龍也海将補)は1月7日、神戸大学法学部学生27人に対する基地見学支援を実施した。
見学者は、神戸大学法学部の現代外交論を専攻する2、3回生で、「資料だけではなく、現場の声を参考にせよ」との大学教授の指導のもと、防衛意識の高揚と自衛隊に関する知識を高めることを目的に、各自、課題を持っての来隊だった。
見学コースは、基地概要説明、史料館見学、航空機見学、シミュレーター体験、体験喫食のほか、隊員との懇談会を実施した。懇談会は、各隊から集めた様々な職種の隊員に対して学生が質問する形式で実施し、約1時間ではあったが活発な質疑応答が行われた。
懇談会が終わった後、学生は、隊員の勤務ぶりや、気さくな姿にふれ、これまで持っていた自衛隊のイメージが払拭され、「教室で学ぶだけではなく現場で起こっていることをしっかり学ぶことの大切さを理解でき有益な時間だった」といった所見を口々に述べていた。
また、教授からは御礼の言葉とともに、「今回、初めての試みだったが、極めて有意義な研修であったことから、以降も継続的に研修を計画したい」旨の所見が述べられた。 |
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地元中学生の職場体験学習を支援 |
《大村航空基地》 |
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第22航空群(群司令・中田芳基海将補)は自衛隊長崎地方協力本部の依頼を受け、1月19日から21日までの間、大村市立郡中学校2年生男子5人の、また、1月26日から28日までの間には、大村市立西大村中学校2年生10人(男子7、女子3)の、総合的な学習の時間(職場体験学習)を支援した。
両校生徒とも元気に「おはようございます」と挨拶し大村航空基地に来隊、広報室長から期間中の学習予定と基地概要説明を受けた後、早速、海上自衛隊航空部隊の各仕事を体験学習した。
学習の一環として企画したヘリコプター訓練装置の操縦体験では、初めての体験に大感激し展示説明したパイロットに、「どうしたらパイロットになれますか?」「女子でもパイロットになれますか?」と積極的に質問している様子が印象的だった。
学習終了後の所感文で、「いろいろな体験学習ができて、大変勉強になった」「将来は海上自衛隊へ入隊したい」「昼食が大変美味しかった」などの所感を述べていた。 |
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彰古館 往来 |
陸自三宿駐屯地・衛生学校 |
<シリーズ 96> |
陸軍軍医総監の肖像 (7) |
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第12代医務局長小泉親彦軍医総監は、在任中の昭和12年(1937)2月に官等改正があり、陸軍初の陸軍軍医中将となりました。
第13代医務局長三木良英軍医中将は、明治20年(1887)兵庫県生まれで、近衛師団軍医部長、臨時東京第一陸軍病院長などを歴任し、日本初の盲導犬の導入をしています。医務局長拝命は昭和13年(1938)12月で、戦時なので、同時に大本営野戦衛生長官を兼任します。
昭和18年(1943)に予備役、翌年召集解除となります。肖像画は近年の吉田栄一氏の揮毫です。戦後は陸軍軍医学校のOBと連絡を取り合い、大東亜戦争衛生史の編纂や、OB会の設立、運営に奔走され、昭和45年(1970)までご存命でした。
第14代医務局長、神林浩陸軍軍医中将は、明治23年(1890)長野の生まれで、2度の医務局勤務を経て、第二陸軍病院長などを拝命しています。厚生省発足の折には医務局衛生課長で、貴族院予算委員会での説明員として活躍しています。
昭和18年3月から終戦後に陸軍省が廃止される昭和20年(1945)11月30日まで、医務局長兼大本営野戦衛生長官の職にありました。
神林医務局長は、戦局が悪化しはじめた昭和19年(1944)10月〜11月にかけて南方の最前線を飛行機で視察しています。この時期、正式な操縦士、機関士、無線士を確保することが出来ず、軍医と薬剤師だけで視察機を運行しました。
フィリッピンでの山下奉文大将は、突然の訪問に喜び、歓待しています。山下大将は密かに奥様宛の遺言状を視察団に託しています。
マニラ、ハノイ、サイゴン、バンコク、ラングーン、シンガポール、ペナン、マラッカ、パレンバン、ジャカルタ、パンドン、ボルネオと、陸軍最後の南方視察機は、敵機を避けながら各地で祖国宛の手紙を預かり、無事に帰国を果たしました。
帰国後、真っ黒に日焼けした神林医務局長を、戦場画家の中村研一氏が揮毫しており、現在も彰古館に現存しています。礼装の歴代軍医総監の肖像画の中で唯一、野戦服を着用した肖像画は異彩を放っています。
戦局の推移とともに、医務局も難題が山積みになります。中でも、終戦間際に立案された細菌戦に関する作戦を、全力を持って阻止したのは、一部の関係者しか知らない業績でした。
当時の細菌戦の考え方は、防御と攻撃がありました。
防御は一般防疫として、医務局が衛生勤務として担当し、医務局隷下の陸軍軍医学校は一般防疫として担当します。つまり、対処法や治療法の研究です。
一方、攻撃に関する研究は、砲弾や航空機、攻撃方法、効力の研究を担当する参謀本部の所掌です。満洲国関東軍防疫給水部の731部隊は参謀本部の直属で、陸軍省医務局の隷下に無い闇の部分だったのです。
伝聞によると、サイパン島が玉砕した昭和20年6月、731部隊の石井四郎中将(当時、形だけは陸軍軍医学校付となっていたが、実際には参謀本部の指揮下)は、サイパン島以下、米軍の手に落ちた南方の島々に対する細菌戦を計画します。
参謀本部から検討を求められた陸軍省は、医務局に「細菌戦可能なるや」と、打診します。
神林医務局長は、ここで初めて細菌戦の実施に関する研究の存在を知り、驚愕したのです。
「万が一、日本が細菌戦を実施すれば、世界の非難を受け、容易ならざる結果を招く」と考えた神林医務局長は、参謀本部各部長、陸軍次官、陸軍省軍務局長、海軍省医務局長を「細菌戦は如何なる場合にも実施不可!」と説得します。全員の「細菌戦実施は絶対に不賛成」の回答を得て、遂に計画は却下されたのです。
「一人の医者として、絶対許せぬ計画」が、実行に移されること無く終戦を迎えたのは、戦後の日本にとって、重要な出来事でした。
陸軍最後の医務局長最後の仕事は、広島原爆被災者の調査と救護活動でした。 |
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