湯川秀樹博士のエッセイに面白いものがある。湯川さんは色紙に何か書いてくれと頼んでくる人に、時々「知魚楽」と書いて渡したという。「知魚楽」とは、古代中国の古典『荘子』からとった文句。
ある時、荘子が恵子といっしょに川のほとりを散歩していた。恵子は議論が好きな人だった。二人が橋の上に来かかった時に、荘子が言った。「魚が水面に出て、ゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽しみというものだ。」すると恵子は、たちまち反論した。「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか。」荘子が言った、「君は僕じゃない。僕に魚の楽しみがわからないということが、どうしてわかるのか。」恵子はここぞと言った、「僕は君ではない。だからもちろん君のことはわからない。君は魚ではない。だから君には魚の楽しみがわからない。僕の論法は完全無欠だろう。」荘子は答えた、「議論の根源にたちもどろう。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』と聞いた時、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうか知っていた。僕は橋の上で魚の楽しみがわかったのだ。」
湯川さんは言う。恵子と荘子の議論は、科学の合理性と実証性にかかわる問答である。魚の楽しみというような、はっきり定義もできず、実証も不可能なものを認めないという恵子の方が、科学の伝統的な立場に近いように思われる。しかし私(湯川)自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より同感したくなる。大ざっぱに言って、科学者のものの考え方は、「実証されていない物事は一切、信じない。」という考え方と、「存在しないことが実証されていないもの、起こりえないことが証明されていないことは、どれも排除しない。」という両極端の考え方の間にある、と。
養老孟司さんは、ベストセラーとなった『バカの壁』シリーズで、ものがわかるということについて深い考察を展開している。人は話せばわかるというが、それはうそである。人は自分が知りたくないことは、情報を遮断して壁が生まれる(バカの壁)。そんなことはわかっていると言うが、実はわかっていると思い込んでいるだけ。説明したからってわかることばかりではない。「ビデオを見たからわかる」、「一生懸命サッカーをみたからサッカーがどういうものかがわかる」など、わかるというのはそういうものではない、ということがわかっていない。
「理解する」とか「わかる」というと、みんな「意味」と結びつけて考える。ところが脳の大部分は無意識という「意味のない部分」が占めていて、意識は氷山の一角。意識は意味を求めたがる。わかるとかわからないとか言っても、それは意識の一番上澄みの部分だけの話をしているに過ぎない。その下には膨大な無意識や無意味が隠れている。無意識や無意味なんて、お互いにわかるはずがない。上澄みだけを見て意味を求めるから「通じるはずだ」と思ってしまう。だから私(養老)は「人間はもっと謙虚になれ」といつも言っている。
湯川さんや養老さんの考察は、「人は何を知ることができるか」を問う古来の哲学上の難問、認識論である。養老さんもそうだったようだが、私も若いころは勉強すれば何でもわかるようになると思っていた。また、人は理解し合えるものだと思っていた。しかし、この年になって、人が自分を理解しないのは当たり前のことであって、自分も人のことをわかっていないことがよくわかった。養老さんの本を読み、年を取って少し謙虚になった。
(令和6年8月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |