石橋湛山(1884-1973)は第55代内閣総理大臣。1956年自由民主党総裁選で岸信介を破って総理に就任し、独立回復(1952年)後の日本再建の舵取りに邁進したが、2か月後気管支炎肺炎に倒れた。病気は容易に快復せず、医師団は向こう2か月の静養加療が必要と診断。ここにおいて湛山は退陣を決意した。「ーー私は新内閣の首相としてもっとも重要なる予算審議に一日も出席できないことがあきらかになりました以上は首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従いますーー」。湛山の潔い身の引き方を知った国民は粛然とし、彼の退陣を惜しんだ。
石橋湛山は戦後政治家に転身し、総理大臣にもなったが、戦前は東洋経済新報社記者、後に社長として言論界で活躍した著名なジャーナリストだった。湛山は自由主義者であり、戦前の、自由が失われていく時代にあって一貫して自由の論陣を張った。湛山は帝国主義、植民地主義に反対し、小日本主義を説いた。満州事変では大新聞がこぞって関東軍の行動を支持したとき、満蒙は日本のものにあらずとして、満州領有の不可を明言した。湛山は軍部の独走とその政治干渉を批判し、あくまで政党主体の議会政治を擁護した。軍部による言論統制が強化され、良からぬ自由主義者、反軍的であると圧迫を受けたが湛山は屈しなかった。
言論人石橋湛山は確固とした哲学と歴史観をもち、結果としてその主張には未来を先取りしたような見識が見られる。湛山は大国日本主義を棄て、植民地の朝鮮、台湾、樺太を放棄し、満州に持つ日本の権益もすべて放棄せよと説いた。あの時代の日本人には到底受け入れられない主張である。しかしその後の歴史を見ると、大国日本主義の日本は満州権益に端を発する日中戦争につまずき、米英との戦争に突入し、敗戦で植民地をすべて失い、戦後小国日本となって復活した。日本は結果として湛山の見通した道を歩んだことになる。湛山は過去の欧米列強の帝国主義による植民地経営が、国民全般にとっては採算がとれるようなものでないことを、具体的に論証した。これからの世界は植民地の全廃に進むであろうし、すべての植民地が独立して新しい国家をつくるのが世界史の流れであると、あの時代に断言した。
また歴史を振り返ると、戦前日独伊三国同盟の締結が日本の進路を決定的に誤らせたとの歴史評価はほぼ定着しているが、湛山は当時国内で高まる自由主義排撃の動きや独伊両国への礼賛気運を戒める言論を展開した。自由主義・個人主義・デモクラシーが「わが国体に適わない悪思想」であり、独伊両国で起こった全体主義は「日本古来の精神と一致する」などという見解は軽薄である。平和が回復し産業が進めば、独伊の今日の全体主義は段々変化し、「中正の思想」に戻るだろう。両国があくまで個人的傾向を取り入れず、極端な全体主義を固守するならば、その全体主義は必然的に崩壊すると湛山は断言した。湛山は真の自由主義の理念を示し、自由主義に対する世間の誤謬を正そうとした。日本は対独伊接近策ではなく、親英米主義、特に対英関係改善により現状を打開すべきであると湛山は主張した。
石橋湛山は戦前言論人の信念を貫き、しばしば時代を超える識見を示した。現在の日本は新しい戦前の時代などと言われる。湛山が生きていれば現在の日本と将来をどう洞察するだろうか。
(令和6年4月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |