今年も8月15日「終戦の日」がやってくる。77年前(1945年)のこの日の正午、天皇(昭和天皇)のラジオ放送で戦争終結が発表された。国民は日本が大東亜戦争(太平洋戦争)に負けたことを知った。戦争は絶望的な負け戦になっていたが、軍部・政府の指導者は戦争をやめることができなかった。終戦は昭和天皇の指導力で行われた。
1945年8月8日、天皇の内意を受けた鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させようと最高戦争指導会議を開いた。会議は紛糾し、ポツダム宣言の受諾に1条件付すか4条件付すかで議論がまとまらなかった。8月9日の御前会議でもまとまらず、鈴木首相は御前会議の慣例を破って天皇にその場で意見を求めた。天皇は腹の底から声を絞り出すように述べた。「私は外務大臣の意見に同意である(つまり、条件を付すなら1条件だけにして速やかに受諾すべきということ)。空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのを欲しない。私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えることである。今となっては一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび起ちあがってもらうほか道はないーーー」。
こうして8月10日、「天皇の国家統治の大権を変更しないことの了解のもとにポツダム宣言を受諾する」と連合国に通知したが、12日アメリカから得られた回答は「日本国の最終的な政治形態は、日本国民の自由に表明する意志により決定される。天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下におかれる」であった。この回答をめぐって再び最高戦争指導会議及び閣議は紛糾した。陸軍は、「この回答ではわが国体は保証されておらず、受諾できない。戦争を継続すべき」と主張。かくて8月14日、再度御前会議が開かれたが、昭和天皇ははっきりと述べた。「自分の意見は先日申したのと変わりはない。先方の回答もあれで満足して受諾してよいと思う。ーーー私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。このうえ戦争を続けては、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、忍びない。ーーー私のできることは何でもする。陸海軍将兵は特に動揺も大きく、陸海大臣は、その気持ちをなだめるのに、相当困難を感じるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよいーーー」。こうして、昭和天皇の決断によって戦争を終結することができたのである。
戦争、未曾有の敗戦という日本の最も苦しい時期に、昭和天皇がおられたことの意義と、日本における皇室の存在意義を私は深く感じている。昭和の時代、陸軍が国政を支配、陸軍の進める戦争が日本の国際的孤立を招き、ついに太平洋戦争に行き着いて敗れた。昭和天皇はこれを止めることができなかったことに苦しみ、戦後、戦争の道義的責任を深く自覚しながらも、退位はしなかった。私はそれがよかったと思う。日本は日本として立派に継続し、復興を遂げた。
故渡部昇一氏は戦後まもなくドイツに留学したが、そのとき、日本の天皇が敗戦後もそのまま在位していることを知ったドイツ人が驚いたことを伝えている。ヨーロッパには戦争に負けた国の君主は廃されていった歴史があるが、日本はそうでないことを知って感動し、「日本人は重厚な民族だ」と評したという。
(令和4年7月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |