山岡鉄舟(山岡鉄太郎1836‐1888)は幕末・維新の偉人。江戸無血開城の立役者、明治天皇の侍従、剣・禅・書の達人として世に知られている。
鉄舟は、六百石取りの旗本小野朝右衛門高富の四男として本所に誕生。父が飛騨高山の郡代に任ぜられ、少年期を高山で過ごす。父の死後江戸に戻り、剣術修業に明け暮れる。
鉄舟は33歳の時、歴史の檜舞台に登場する。1868年、「鳥羽・伏見の戦い」で薩長の新政府軍に敗れた将軍徳川慶喜は、江戸に逃げ帰る。新政府軍は駿府に到着して江戸城総攻撃を決定。何としても朝敵の汚名を避けたい慶喜は、絶対的恭順を決意。恭順の赤心を新政府軍大総督府に伝える役を、護衛高橋泥舟(鉄舟の義兄)の進言を得て、山岡鉄舟に託す。
慶喜に呼ばれ、主君の堅い恭順の意志を確かめた鉄舟は、決死の覚悟で駿府に向かい、大総督府の参謀西郷隆盛との乾坤一擲の談判に臨んだ。そして、城を明け渡すこと、兵器を渡すこと、軍艦を渡すこと等5箇条の恭順の実効が示されれば慶喜に寛典が下される約束を取り付け、慶喜に報告。慶喜の歓びはたとえようもなかった。
続いて江戸に進駐した西郷隆盛と勝海舟との間で史上名高い会談が開かれる(鉄舟はこの会談に同席)。こうして江戸無血開城は、西郷と勝だけではなく、事前に鉄舟の働きがあって実現した。
維新後徳川家は駿府藩主(後静岡藩知事)となり、旧幕臣とともに駿河国に移住する。鉄舟は藩の幹事役(後に権大参事)として、混乱する藩を治めた。旧幕臣を帰農させ、茶園の開墾などを進めた。
鉄舟は、37歳のとき新政府の強い要請を受けて、明治天皇の侍従となった。鉄舟の人格を深く認める西郷が、若い天皇(21歳)の教育係として鉄舟を宮中に推挙した。
鉄舟は53歳で死去した。坐禅を組んだままの大往生であった。
山岡鉄舟は、剣と禅で人間を形成した。剣は幼少の頃より諸師について、すさまじいまでの修業に明け暮れた。鉄舟は剣に心身の錬磨と絶対的な精神の安定を求めた。そして45歳の時、大悟して一刀正伝無刀流を開いた。
禅は、武道を全からしめるには剣と禅の修業の他なしと父に教えられ、13歳の頃から始めた。20代の鉄舟は、昼は剣術、夜は坐禅という生活だった。三島の龍沢寺星定和尚に参禅し、40歳の頃大悟、なお天龍寺の滴水和尚に師事し、45歳の時、印可を得た。
山岡鉄舟の剣・禅の修業で到達した人間力は衆に抜きん出ていた。勝海舟は「山岡は明鏡のごとく、一点の私ももたなかった。だから物事に当たり即決しても豪も誤らないーーー」と評している。西郷は鉄舟のことを、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといった始末に困る人」と言い、「本当に無我無私の忠胆なる人とは山岡さんのごとき人でしょう」と評した。滴水禅師は鉄舟のことを、「あれは別ものじゃ」と答えるのが常だった。
私は山岡鉄舟のような人格を生んだ、当時の日本の文明度の高さを思う。鉄舟は情の人でもあるが、たぐいまれな正直とそこから来る強靭な全人格的理性を感じる。そして鉄舟の理性は、いわゆる近代的理性を突き抜けていると思う。
(2018年12月3日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |