防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース 防衛ホーム新聞社 防衛ホーム新聞社
   2005年7月15日号
1面 2面 3面 6面 7面 8面 9面 10面 11面 12面

<古彰館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ42〉
八甲田山の遭難
 明治35年(1902)1月、青森の第八師団歩兵第五連隊は八甲田山の雪中行軍訓練中に遭難し、210名中生存して救助された者は僅かに17名、最終的に命を取り留めたのは11名に過ぎませんでした。
 新田次郎の小説「八甲田山――死の彷徨」やその映画化で知られた、一個連隊が全滅に近い死者を出す大惨事だったのです。
 この事件の報を受けた明治天皇は御心を痛められ「現地の様子を詳しく知らせなさい」と命じます。刻々と報告される凍死者発見の報告を聞き、侍従武官である宮本照明砲兵大佐が現地に飛び、奇跡的に救出された生存者の絵を絵師に描かせます。この絵師の名前は不明ですが、絹に顔料を摺り込む特殊な画法で描かれています。この凍傷図は直ちに明治天皇の天覧を受けます。ここには生存者の内10名分が描かれ、彰古館に現存しております。縁の部分に金箔が張られているのは、皇室に天覧される際の慣わしだということです。
 彰古館には他にも「病床日誌」という形で当時のカルテの写しが彰古館に残されています。当時はカルテを永久保存するという慣習がありませんので、たまると古いものから捨ててしまっていたそうです。この写しは出井淳三陸軍軍医総監が昭和初期に青森衛戌病院に保存されていた原本から手写しされたものです。この写しには9名分が記載されており、凍傷図の10名と同一人物たちです。
 生き残った雪中行軍責任者である指揮官山口少佐は、救助された翌日心臓麻痺で亡くなります。この死は、小説では拳銃による自殺とされています。陸軍病院に武器弾薬が持ち込まれるという不自然さもありますが、重度の凍傷によって四肢に包帯を巻かれ、動かすこともままならない右手で拳銃自殺を図るのは物理的にも不可能なのです。
 この山口少佐の死に関して弘前大学医学部麻酔科の松木明知教授は、30年来の調査・研究と収集した数々の史料から「クロロフォルム麻酔による心臓麻痺の可能性を示唆しています。麻酔と医学史を専門とする松木教授の独自の視点です。
 彰古館の保有する陸軍軍医学会雑誌には「明治三十五年凍傷患者治療景況」があります。この山口少佐死亡時の詳細な報告を医学的に解析すると、クロロフォルム吸入による心停止の所見と一致点が多いのです。
 陸軍創設以来最大の不祥事に際して、現場指揮官が生き残っていては、陸軍省が苦境に立たされる。時の陸軍大臣児玉源太郎が謀殺を指示したという、極めて大胆な推理です。凍傷によって四肢を切断されれば除隊になります。その後の陸軍や世間の責任追及の声から救済する「安楽死」の意味もあったのでしょうか?
 青森衛戌病院で山口少佐の治療に当たった中原貞衛軍医は数年後に変死を遂げています。これも彰古館の所蔵する軍医学会雑誌に詳細な解剖所見があります。
 既に103年という月日を経て、研究し尽くされた感のある事件ですが、彰古館の史料と、あくなき研究者の調査・解析によって、まだまだ新事実が浮上する可能性があるのです。

12面へ
(ヘルプ)
Copyright (C) 2001-2008 Boueihome Shinbun Inc