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盛大に創立45周年を祝う |
<通信団> |
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通信団は2月26日、市ヶ谷駐屯地大講堂で、通信団協力会会長(副会長代行)及び各隷下部隊OB会長を来賓に迎え「通信団創立45周年記念式典」及び「感謝状贈呈式」を挙行した。
式典においては、通信団長の大久保利通陸将補が式辞として、45年にわたり輝かしい伝統を築き、継承してきた諸先輩方々の功績を称えるとともに、これからも取り巻く環境の変化に対応しつつ「働いて評価される実働部隊としての通信団の誇りを堅持して更に飛躍する」ことを参加者に誓った。また、通信団協力会長は、国民の自衛隊への益々の期待と、円本における自衛隊の地位・役割の重要性などについて隊員を激励した。
引き続き「祝賀会食」がアルカディア市ヶ谷で開催され、隊員とともに通信団協力会、OB隊員、各部隊長等夫人ら約500名が参加、会場は大いに盛り上がった。
また今年は、創立45周年の節目の年でもあり、盛大にイベントが行われ、祝賀会に華を添えた。 |
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小平学校・刈間技官、人命救助で表彰!! |
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小平学校総務部衛生課の刈間久美子技官は、通勤途中の2月28日朝7時55分頃、小平市学園西町3丁目の路上において、倒れている男性の周りに人だかりができている現場に遭遇した。
刈間技官は警察官・今井教之巡査長と連携し、心肺停止状態で生命の危機に瀕していたその男性に対し、救急車が到着するまでの間、適切な心臓マッサージ等の救護措置を行い男性の命を救った。
この救命行為に対し、東京消防庁消防総監から感謝状が贈られることが決まり、3月2日、小平消防署で小平消防署長から伝達された。
更に、この事は3月3日の読売新聞朝刊多摩版で報道され、刈間技官と今井巡査長の善行が称えられた。 |
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<全自卓球大会> |
旭川が10連覇 |
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第11回全国自衛隊卓球大会が1月15日、16日の2日間、埼玉県新座市総合体育館で、全国から選手・役員約240名の参加・強力を得て、開催した。
団体戦および個人戦の各種目において熱戦を繰り広げ、団体戦の部では、打倒旭川に燃える各チームがしのぎを削った。
決勝戦は、前年と同カードとなり旭川対善通寺の闘いとなったが、旭川チームが善通寺に勝利し、大会10連覇を達成した。
男子シングルスでは三島選手(旭川)が決勝で同じ旭川の室谷選手を破り、2連続7度目の王座についた。
女子シングルスでは、安保選手(旭川)が木崎選手(湯布院)を破り2年連続で優勝した。
なお、今回は女子団休戦をエキシビションにより実施した。
各種目の成績については次のとおり。
〈団体戦の部〉
▽優勝=旭川▽準優勝=善通寺▽第3位=市ヶ谷、武山A
〈個人戦の部〉
【男子A級シングルス】
▽優勝=三島崇明即応予備自士長(旭川)▽準優勝=室谷一浩3曹(旭川)▽第3位=中田浩二1士(旭川)、井上祥技官(松山)
【男子B級シングルス】
▽優勝=影浦洋輔士長(善通寺)▽準優勝=山下浩二2曹(善通寺)▽第3位=伊藤和真3曹(善通寺)、福島真美3曹(福島地連)
【壮年A級シングルス】
▽優勝=平澤則英・家族(武山)▽準優勝=郷田冨士美1曹(府中)▽第3位=神郁夫曹長(弘前)、内川博道2曹(弘前)
【壮年B級シングルス】
▽優勝=青木誠准尉(島根地連)▽準優勝=山崎豊1尉(朝霞)▽第3位=須藤英明1曹(青森)、西坂展和事務官(市ヶ谷)
【ベテランシングルス】
▽優勝=松岡伸助2尉(浜松)▽準優勝=吉田英晴・OB(岩手)▽第3位=川口隆司曹長(横須賀)、川本典昭2佐(由良)
【女子シングルス】
▽優勝=安保美代子土長(旭川)▽準優勝=木崎あゆみ・家族(湯布院)▽第3位=矢野和代・家族(湯布院)、堀内初栄事務官(市ヶ谷)
【男子ダブルス】
▽優勝=三鳥・吉田組(旭川)▽準優勝=井上・影浦組(松山・善通寺)▽第3位=川西・谷澤組(善通寺)、服部・服部組(三沢)
【女子ダブルス】
▽優勝=矢野・木崎組(湯布院)▽準優勝=川田・安保組(千僧・旭川)▽第3位=堀内・大島組(市ヶ谷・三宿)、神・澤口組(青森)
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<彰古館 往来> |
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ペニシリンと軍医 |
〈シリーズ 39〉 |
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ペニシリンは、医療従事者でなくても誰でも知っている抗生物質です。
ペニシリンは、戦後米軍によって大量に国内に持ち込まれ、アオカビから精製する方法は、国内の至るところで薬品会社が設立される要因ともなりました。
この様に戦後になって導入されたイメージが強いペニシリンですが、既に戦時中に開発されていたことはあまり知られていません。
昭和18年(1943)12月、市ヶ谷の総力戦研究所での教育を終えた稲垣克彦軍医少佐は、今自分が出来ることは何かと考えます。その頃、外国からの医学情報は途絶していましたが、ドイツから最後に帰還した伊8号潜水艦で届けられた医学雑誌に触発され、ペニシリン開発を決心します。
翌年2月、陸軍軍医学校が中心となり、当時としては極めて異例ですが、陸軍だけではなく、海軍軍医学校、民間の大学の研究室までを組み込んだペニシリン委員会が発足したのです。
古来我国では、鰹節にアオカビを付着させて腐敗を防ぐなど、アオカビが持つ或る種の毒性によって、細菌の繁殖を抑える効果を経験的に知っていました。
この毒性の強いアオカビを全国から収集し、培養するところから研究がスタートしたのです。
当初は難航した組織運営の上の問題や技術的な問題も徐々に解決し、アオカビの収集と、強い菌種の育成も軌道に乗り、静岡県の森永食糧工業三島食品工場のプラントを利用して僅かながら先行量産が始まります。学会と業界もまた手を結んでペニシリンは僅か9ヶ月で開発に成功したのです。森永では静岡県立三島北高等女学校の女学生が挺身隊員として白鉢巻姿で作業に励み、陸軍軍医学校では第一高等学校生が勤労奉仕に従事し、研究成果の統計作業のほか、英独仏伊西露語の特訓を受けて医学書の翻訳を行ない、ガリ版刷りで学会に配布していたのです。
また、適性語のペニシリンを日本語に変換する命令を受けて一高生達に公募した結果、有力候補の「あおかびん」を押さえて「碧素(へきそ)」が採用されました。ここに和名「碧素」が誕生したのです。
昭和20年3月、量産に向けて準備中のところ、東京ではB29の空襲が始まります。物資の補給もままならず、アオカビの培養と供給、一高生の昼御飯など全てが枯渇し、自分の僅かな食事を減らし、臨床実験用のマウスに与える者など、皆が栄養失調すれすれの状況でした。三島工場から送付される僅かなペニシリンは陸軍病院や大学病院に配布しました。民需にまわす余裕は全く無かったのですが、5月24日の東京大空襲や、8月6日の広島の原爆投下の際には試作品のペニシリンが使用されました。純度の低い碧素は、投与直後に副作用による発熱がありましたが、熱傷患者に劇的な効果がありました。
終戦後、開発に携わった科学者、学生の多くが抗生物質の研究者となっています。碧素開発の資料は稲垣軍医が終戦の混乱の中を守り抜き、現在は内藤薬博物館に寄贈され、これらの資料を纏めた文献が彰古館に保管されています。 |
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防衛ホーム 俳句コーナー |
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灯を消して富士の真上の春の星 中村 かよ
花屑の水を飲みほす牧の馬 大本宏太郎
植田はや櫛けずるごと吹かれをり 大平 光枝
花吹雷独り包まれ晴れがまし 伊藤 寂人
相寄りて離れて花の花筏 篠崎 茜
寄り合ふも独りもたのし科斗に似て 畠中 洋子
(科斗=正しくはそれぞれに虫篇がつく・読み=かと)
夜桜を見上げて言葉胸に秘め 松村久美子
蓬摘む爪を緑に染めにけり 中園美智代
春の闇遠き番屋に灯一つ 安福 箭子
峠より見る故郷の若葉山 榎本 木乍
坂東太郎水嵩増せり燕来る 羽田 豊道
癒されし花に一礼して去りぬ 西村 栄治
真っすぐにただ真っすぐに葱坊主 木通 佳子
手波くれ雛を流すは罪ならめ 佐藤陸前子
花の色褪せゆく如く老いにけり 塩田 昌恒
花菜咲き海峡の渦かがやかす 高平 保子
花よそに嬰は遊ぶ児等見てをりぬ 馬場 美雪
古里を捨てしは昔蓬摘む ジョンズ美加子
呼応して桜吹雪となりにけり 桑野 英毅
道の辺にひっそり咲きて都子の花 栗原 勝
選者吟
ゆっくりと風過ぐ花を散らせては 保坂 伸秋
(「栃の芽」誌提供)
「栃の芽」誌をご希望の方は〈栃の芽会連絡先=仙台防衛施設局総務部・畠中草史氏 TEL 022・295・1281内線3100〉へご連絡下さい。 |
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