昭和20年(1945年)9月2日、太平洋戦争に敗北した日本は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号上で、アメリカ等の連合国に降伏する文書に調印した。調印式には日本政府を代表して外相重光葵(しげみつまもる)が、軍を代表して参謀総長梅津美治郎が出席し、これをもって太平洋戦争が公式に終結した。大任を果たしてほっとし、その夜ホテルでこれから寝ようとする重光に、松本次官以下外務省の幹部がやっかいな情報をもたらした。占領軍総司令部が日本に軍政を布いて行政部門を統括するため、布告を発したというのである。これでは日本政府はなくなり、日本は占領軍による直接の軍政下に置かれることになる。重光は明朝早く横浜の総司令部に行き、マッカーサー総司令官と直接交渉する決意を固めた。
9時半総司令部に着いた重光は総司令官室に入り、マッカーサーと対談。重光は、「占領軍総司令官が日本に軍政を布くとの報道を得たが、これは日本の現状に適さないので、撤回していただきたいと思い参上した」と言い、その理由を述べた。「終戦は国民の意思を汲んで、天皇直接の決済に出たもので、ポツダム宣言の内容を最も誠実に履行するのが天皇の決意であり、それを直接実現するために、特に皇族内閣を立てた。ポツダム宣言は、日本政府の存在を前提としており、日本政府に代わる軍政をもってすることを予見していない。日本の場合はドイツと異なる。連合軍がポツダム宣言の実現を期すならば、日本政府に拠って占領政策を実行するのが、最も賢明の策と考える。これに反して、占領軍が軍政を布き、直接行政実行の責任をとることはポツダム宣言以上のことを要求するもので、それは混乱をみることとなるかもしれない」と。
マッカーサーの態度は固かったが、次第に重光の主張に理解を示した。最後に「よくわかった」と言い、軍政の施行を中止することを承諾し、その場でサザランド参謀長に命じて直ちに布告を取り下げる措置をとらせた。
こうして日本は敗戦したとはいえ、直接軍政となる最悪の事態を避けることができた。今日重光葵を知る日本人は少なくなった。しかし、敗戦した日本の最も苦しい時期に、勝者に対して堂々と所信を主張して認めさせ、日本を救った重光葵の功績を、我々は忘れてはならないと思う。
重光葵は1911年(明治44)外務省に入省。上海総領事、中国公使、外務次官、ソ連大使、イギリス大使、中国大使、東条内閣および小磯内閣の外相を歴任した。軍部が政府を支配し、軍部主導の戦争が日本の国の信頼を損ない、国際的に孤立していく昭和の時代にあって、日本が信頼を得て各国と良好な関係を維持しようとする重光の外交努力は困難を極めた。重光は絶望的な環境にあっても、最善の選択肢を得るべく渾身の努力を傾注した。
重光葵は小村寿太郎に比肩する希有な外交官だったと評価される。私は重光の人間力は小村を上回るのではないかと思う。重光は明晰な頭脳と良識をもち、常に世界情勢の認識を誤らなかった。勇気と胆力をもって所信を実現しようとした。重光をよく知るイギリスのハンキー卿は、重光を高潔さと善良さのオーラが漂うと評した。
重光葵を知ることは日本の近代史の真実を知り、困難な時代を生きた日本の先輩たちの苦闘と叡智を知ることである。それは困難な将来に立ち向かう我々の勇気の源泉となるだろう。
(令和4年9月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |