戦後の東京裁判で「南京大虐殺」が確定した。判決文は述べる。「ーーー日本兵は市内に群がって、様々な残虐行為を犯した。ーーーこれらの無差別な殺人によって、日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女、子供が死亡した。ーーー後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上であったことが示されている。この見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその団体が埋葬した死体数が15万5千に及んだ事実によって証明されている。ーーー日本軍人による強姦、放火、および殺人は、南京陥落後6週間引き続き大規模に行われた」
この判決は、全面的に検察側証言と資料に依存している。南京大学教授ベイツは証言台に立ち、「観察の結果、城内で1万2千人の男女および子供を含む非戦闘員が殺されたのを結論とする」と述べた。ベイツは1938年時点で「南京陥落後、4万人の中国人が殺された。そのうち30%(つまり1万2千人)は兵士ではなかった」とティンパーリへの書簡で述べていた。しかし、30%が一般市民だったという主張には何の根拠もなく、伝聞によるベイツの推測に過ぎなかった。
20万人以上の殺害は、判決に述べるように、埋葬した死体数が合計15万5千体に及んだことを根拠としている。この数は、紅卍会による埋葬数4万件と、崇善堂による11万体を超えるという埋葬数との合計であるが、崇善堂の埋葬数は実際は1万体にも満たず、11万体は虚偽報告であることが現在明らかになっている。従って、判決の20万以上の殺害に根拠はない。
また、当時の南京市の情況を記録した資料から、6週間にわたり20万人を超える虐殺が進行しているような実態は覗えない。安全地区国際委員会から日本大使館へ、38年1月中旬に帰宅した難民への日本兵による強姦事件が報告されているが、大虐殺の進行を彷彿させる報告はない。南京攻略戦を戦った中澤三夫は証言する。「ーー住民は日本軍を信頼して、市外の避難地にいた者も自分たちの住居に復帰していた。37年末には治安維持会が結成され、翌年1月1日の発足式には数万の市民が式場に集合して歓喜したほどだった。その後住民は漸増し、物売りの数も増えつつあった」
いわゆる「南京大虐殺」が、20万以上の計画的な市民虐殺を意味する場合、そのような大虐殺は無かったと結論できる。しかし、軍紀を乱した日本兵が市内を徘徊し、強姦、掠奪を行い、散発的な市民殺害もあったことは否定できないと私は思う。検察側に提出された中国人と欧米人による日本兵の行動告発は、多くは伝聞、流言によるもので、誇大に脚色されたものが多いが、真実も存在すると考える。
また東京裁判の判決は、南京陥落後日本軍の掃蕩作戦で摘発した便衣兵(軍服を脱いで潜む中国兵)の処刑を市民に対する殺戮と見なすだけでなく、南京戦の戦闘中日本軍が行った不穏な中国兵捕虜の処刑も不法な虐殺と見なしている。東京裁判のこの考え方に立つ限り、20万以上の大虐殺は荒唐無稽としても、南京で大量の虐殺はあったということになる。
東京裁判は戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという、著しく公平性を欠く裁判だった。裁判官はすべて戦勝国から選出され、しかも事後法による裁判で、そこに法的な正義はほとんどなかったと私は考えている。
(令和4年1月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |