「もう主人に古本を送ってこないでください。置くところもないし、本の重さで家がつぶれてしまいます!」
彼の奥様にはこっぴどく怒られましてね、とチェーンスモーカーのその方は、いたずらっぽい表情を見せながら新しいタバコに火をつけました。奥様の悲鳴にも拘わらずこれからも読んでほしい古本は送り続ける、その方の信念には微塵の揺らぎもなさそうな気配を感じます。
その後、彼とどのような古本授受共同作戦を展開しているかは不明。今のところ、奥様に気づかれることなく功を奏しているようです…。
曰く、「古本を探し出す。読んでもらいたい人に贈る。私の楽しみなのです。要らなくなったら、自由に処分してもらえばいいんです」
その方の部屋には、大きなガラス張りの本立てがあります。中には、セロハン紙のカバーがかかった古本の小山がいくつも横積みされています。
「それぞれ行先が決まっている本たちです」この人にはこの本を、あの人にはこれを是非読んでもらいたいとの思いで求めた様々なジャンルの古本が、出番に備え即応態勢で控えているのです。
自身、大の読書家。読むのも速い。そして、本の持つ無尽の力を通じた人材育成に力を注ぐ。尽くして求めず。この一徹な性格の持ち主は、約半世紀の間、毎週金曜日の午後の時間を東京神田の古書店巡りのために先取りし、全てのスケジュールに優先させて来ました。
それだけではありません。古本を持ち帰るや否や、ある作業に没頭して来ていたのです。このことを知ったのは、つい最近、全くの偶然からでした。
作業に欠かせない7種類の必需品。
まず、「歯ブラシ」で本に着いたゴミやホコリを、表は勿論、各ページごとに綺麗に落として行きます。そして手垢などが付いた個所は、台所用品の「キッチンハイター」の威力に依存。薄く水に溶かし「ティシュ」で撫でるように丁寧に拭き取ります。本の帯や表紙などの破損個所は、「ピンセット」を器用に使い「和紙」と「和糊」で慎重に補修。和糊でなければ将来カビが生えてしまうとのこと。セロテープは変色するので絶対に使わない。そして手の油から本を守るため、「セロハン紙」で表紙にカバーをかける。これでようやく完成。
新しい持ち主の元に向かうため横積みされた古本は、この手間暇かけた一連の作業を完璧に終えた本たちばかりだったのです。
その方とのご縁に恵まれて以来、私の読書量も、有無を言わせず増えています。難しくて良く分からない本もあります。他方、内容に引き込まれ一気に読了することや新たな出会いや発見に興奮することも。今まで一顧だにしなかった事柄について、興味や関心を持ち始めた自分の変化にも驚きます。その方が考える私に必要な古本の魔術でしょうか。
妻自身が、先取りして読みふけることも日常になっています。しかし、そんな妻も、我が家の極めて小さな「トリ小屋」が満杯になりつつある状況を縷々挙げて、私に圧力をかけます。
「いい?ちゃんとお話しするのよ。お断りする勇気がなければダメ」
「分かってる」
そんなとき、電話です。
「珍しい本を見つけましたよ!楽しみにしていてください!来週、お会いしましょう!」
「はい。ありがとうございます!」
妻が睨んでいます。
北原 巖男
(きたはらいわお)
元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現(一社)日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事 |