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   2007年11月15日号
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金門島を訪問
日本国防協会評議員 水崎勝彦
 財団法人日本国防協会(会長・中谷元・元防衛庁長官)は去る10月2日から5日、台湾を訪れた。今回の訪問は、平岡副会長兼理事長(元空幕長)以下32名(内女性4名含む)の有志会員をもって、台湾(台北・高雄・金門島)の軍関係者との交流を主目的とし、併せて台湾の国情、民情等に触れることにあった。特に、台湾駐日代表処のご好意により参謀本部を始め陸海軍司令部を訪問、台湾を取り巻く諸問題についての意見の交換を交わし、ひいてはわが国の防衛のあり方を探るうえで貴重な体験を得た。
 第1日目(10月2日)
 成田から24名、福岡から8名、計32名が快晴の台北桃園国際空港に到着。結団式の後、台北市内、旧台湾総督府・現台湾総統府参観後、国防部参謀本部にて情報次長・婁少将等幹部から中共軍軍備拡張等ブリーフィングを受け、故蒋介石総統を偲ぶ民主(旧中正)記念堂、約33万の戦没将兵の霊を祭る忠烈祠において定時の衛兵交代式を見学した。
 第2日目(10月3日)
 早朝、今春開通なった新幹線にて台北から南部主要都市・高雄へ向かい、左榮海軍基地・海軍艦隊指揮部表敬訪問、直ちに軍艦「武昌」(フランス・ラファイエット級フリゲート)に乗艦、士官室にて指揮部副指揮官、江中将のブリーフィング・艦内見学の後、退艦。続いて、隣接の海軍陸戦隊司令部にて副司令・許少将から歴代司令官・編成・戦歴を展示した資料館見学、水陸両用車等の武器展示説明を受けた。夕刻、高雄港を眼下に望む忠烈祠に参拝、おりしも出港中の台湾海軍主力艦・基隆級駆逐艦2隻を遠望した。
 第3日目(10月4日)
 高雄から空路台湾海峡を約1時間で越え、ほとんど中国本土に隣接した金門島は、1958年8月には約44日間、対岸の中共軍から47万発という砲撃にさらされた歴史があり、近年は対中民間貿易(小三通)や観光地として変貌しつつあるが、基本的には全島これ最前線の軍事要塞となっている。
 陸軍金門防衛隊指揮部は、島中央部の太武山を中心に強固な花崗岩岩盤をくりぬいて構築されており、大砲撃戦当時失われた緑はその後防衛隊将兵の植林により回復されたと聞いた。昼食は防衛隊指揮官、楊中将主催で盛大な歓待を受けた。午後から、中共軍の上陸侵攻にさらされた古寧島の戦史館、および同島への物資補給のため海岸の岩盤に坑道をうがち作られた水路要塞、<INLINE NAME="" COPY=OFF>山坑道を見学し同島保守にかけた台湾の国家意思を体感した。
 第4日目(10月5日)
 午前、北京・紫禁城ゆかりの70万余点の国宝級所蔵物を誇る国立故宮博物館見学を最終日程とし、桃園国際空港にて訪問団の編成を解き、今回の国防協会台湾研修の全行程を無事終了した。

MRI・CT検査装置の運用開始
《佐病》
 自衛隊佐世保病院(院長・妻鳥元太郎1海佐)では10月4日、佐世保地方総監・赤星海将、自衛隊中央病院副院長・藤田海将、潜水医学実験隊司令・大塚将補、海上幕僚監部首席衛生官・瓜生田将補を来賓に迎え、MRIの運用開始に伴う落成披露を行った。
 晴天に恵まれた秋晴れの中、行事は妻鳥院長のあいさつに始まった。院長はその中で、導入に至る経緯を踏まえて「佐病のMRIを真に必要としていたのは患者さんであり、永きにわたり多数の人がリレーした『MRI検査を当院で!』という熱い思いを患者さんに渡すことが我々の使命であると肝に銘じ、大きな責任を遂行していかなければならない始まりの日である」と強調した。
 続いて、旧洗濯室から生まれ変わったMRI室の門出にあたり、赤星総監、藤田中病副院長、妻鳥院長の3名によるテープカットが行われ、紅白のテープにハサミが入った瞬間、大きな拍手がわき上がった。引き続き、院長、先任伍長の手によって真新しい看板が入り口に掲げられ、室内や機器も披露された。
 佐病へのMRIの導入は海幕長が監督する地区病院の中では最も遅く、初めて導入された舞病に遅れること16年となった。その間、佐世保地区隊員からの強い要望を受け、佐病職員は「MRI検査を当院で!」と要求を続けたが、病院開設27年目にようやく関係各位の尽力によって念願が叶った。
 佐病にとって今年は、既報の「外来患者数60万人突破」に加え、「MRIの導入」と節目の年となった。この日、「諸先輩方の熱き思いを継承しつつ今後も佐世保地区の隊員とその家族のために適切な医療を提供する病院として飛躍を続けたい」と、職員一同あらためて誓った。

第32普通科連隊が中央観閲式に参加
 第32普通科連隊(連隊長・曽田健史1陸佐)は10月28日、朝霞訓練場で実施された「平成19年度自衛隊記念日記念行事観閲式」に362名(配属を受けた34連隊隊員を含む)が参加した。
 連隊は「対特殊部隊・武装工作員対応装備の普通科部隊」として、戦闘防弾チョッキ、戦闘パット及び戦闘ゴーグル等を装備した姿で挑んだ。
 当日は台風一過の初夏を思わせる汗ばむ陽気の中、観閲台正面に整列し一糸乱れぬ動作と威風堂々の行進で観客を魅了した。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ69>
第1次世界大戦の記録
 戦地から後送されてきた重症の戦傷病者たちは、パリ市内の専門医療機関でより高度な治療を受けます。
 戦地の施設も設備は整っていましたが、主として救急医療を重点にしていますので、長期療養の必要な重傷患者たちは、症状の安定するのを待ち、内地へ運ばれるのです。
 写真帖にはパリの補助病院、フランス陸軍軍医学校付属病院などの施設と、リハビリテーションの様子が貼付されていました。
 傷が癒えた戦傷者の次の課題が、社会復帰のためのリハビリテーションなのです。戦傷は、一般の怪我と異なり、銃創、砲傷、爆裂傷、刺傷、火傷など多岐に渡り、ほかにも毒ガスなど、通常の一般治療とは趣をことにしています。
 特に神経の損傷や四肢の切断によって運動障害の後遺症を残す場合が多く、リハビリテーションは、外科と共に軍人医学上最も比重を置いていました。
 写真を見ると、器具を使用した治療、電気治療、熱気を利用した治療、そしてリハビリ体操などの様子が分かります。
 そして、驚くべきことに、これらの療法は、リハビリテーションの現場で、今でもメインに行われているのです。実際、階段の昇降や、ボート漕ぎ、自転車漕ぎ、肘や膝の屈伸を行う機械、温熱療法などは、現在の器材とほとんど変わっていません。
 軍陣医学の最終目的が、戦傷者の社会復帰にあったことが理解できます。それは日本でも全く同じでした。

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