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スペーサー
自衛隊ニュース   1086号 (2022年11月1日発行)
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ノーサイド
北原巖男
尽力

 今年5月、沖縄は本土復帰50年を迎えました。先の大戦で沖縄は国内で唯一の地上戦となり、米軍による激しい砲撃「鉄の暴風」にさらされました。人口の4分の1が戦没したといわれる過酷な戦争の時代に巻き込まれました。
 戦後も、厳しい惨めな収容所生活を余儀なくされ、米国の施政下で、筆舌に尽くし難い苦難の道は続きました。
 1972年5月15日の復帰から半世紀。沖縄は不死鳥のように蘇りました。これを可能にしたのは、何よりも沖縄の人々自身の不断の努力・尽力の賜物です。本土(政府)からの厚い支援も忘れてはならないでしょう。今では沖縄は行ってみたい所、住んでみたい所ランキングで北海道と1,2を争う県となっています。沖縄は、多くの本土の人びとの憧れの地なのです。
 復帰当時の自衛隊、自衛隊員にとりまして、また、ちょうどこの年の4月に防衛庁に入ったばかりの僕にとっても、沖縄の本土復帰は特別な感慨を抱くことでもありました。1972年5月15日の本土復帰と同時に沖縄の防衛任務は自衛隊が担います。そのため沖縄に赴任する自衛隊員の食事用の所謂「鍋や釜」を、5月15日に先駆けて沖縄に送りました。ところが、それが「復帰の先取りだ」として問題になり、国会でも大きく取り上げられました。所謂「鍋釜事件」です。
 自衛隊は旧軍とは全く異なる存在とはいえ、復帰に伴って自衛隊が沖縄に展開することについては、先の戦争の凄まじい体験・記憶が鮮明な沖縄の人びとにとって、違和感、中には嫌悪感をも覚えたことがあったのは確かだと思います。そうしたこともあって、当時沖縄に赴任した自衛隊員は、多くの苦労を経験したと記録されています。子弟の教育や生活一つとっても厳しい状況でした。
 しかし、自衛隊員一人ひとりが沖縄の皆さんの、あるいは誤解を解き理解を求めて真摯に向き合い、地域に溶け込み、様々な分野で協力活動を積み重ねて来た尽力の結果、今や自衛隊は復帰直後には考えられなかった、信頼され頼られる身近な存在となっています。自衛隊員は、沖縄の皆さんの「良き隣人」なのです。
 ここで、那覇防衛施設局(現 沖縄防衛局)の皆さんの活躍をぜひ知って頂きたいと思います。
 自衛隊と同様、復帰後、那覇防衛施設局は大変難しい立場にありました。自衛隊及び在冲米軍と沖縄の皆さんとの懸け橋的存在である那覇防衛施設局。その職員のかなりの部分は地元の方、ウチナーンチュなのです。以前、ある職員の方は、施設局に勤めていると言うと門中(沖縄で同族のこと)の長老から睨まれた、親族からいろいろ言われた、と冗談めかして話してくれました。
 沖縄は親族の結束が固い土地、時にはご先祖さまも口をはさむ所なので職員は大変な思いを抱いて職務に励んでいたに違いありません。
 私たちは、とかく南国の人はのんびりしている・持久力がないなどと勝手な想像をしがちです。しかし、施設局(防衛局)のウチナーンチュの仕事ぶりをご覧になれば、自分がいかに間違った認識を持っていたかを思い知らされるにちがいありません。
 施設局(防衛局)の仕事は広範多岐にわたります。そのいずれもが直接に地元の人たちの生活に響く難しさがあります。簡単に解決できるケースはほとんどありません。昼間の話だけでは終わりません。南国の夜は長いのです。何度も何度も伺って説明し、説得し、住民の方に納得していただく気の遠くなるような過程が必要となります。時には信頼関係を基盤として、自衛隊や在冲米軍に対し厳しい申し入れ等を行うことも重要な任務です。
 「施設局(防衛局)」・「自衛隊/在冲米軍」・「沖縄の皆さん」との「信頼のトライアングル」の構築。
 施設局(防衛局)職員は、それをやり切って来ています。ヤマトンチュ(本土)の職員も例外ではありません。沖縄防衛局の職員の皆さんの日々の労苦が、自衛隊や在冲米軍の駐屯地や基地を支え各種の活動を支えていると言っても過言ではありません。
 沖縄のみならず全国の地方防衛局の皆さんも、それぞれに自衛隊や在日米軍の円滑な運用等を確保するため、今この時間も地元の皆さんのもとに伺い、理解を得るべく懸命に尽力されていることと思います。
 ご苦労の多い大変な任務ですが、頼みます。
 Yes,you can do it!

北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事


読史随感
神田淳
<第112回>

深刻な日本の国力の低下

 経済をベースとする日本の国力の低下が著しい。1991年に始まったバブル崩壊後、30年以上日本経済は低迷し続けている。この長期にわたる日本経済の停滞を海外は「日本化(Japanification)」と呼ぶ。「日本病」と言う人もいる。
 1990年日本の国民一人当りGDP(名目)は世界第8位だった。それが2021年には27位に転落した。G7の中で1990年日本は1位にあったが、2021年には6位に落ちた(7位はイタリア)。
 国民一人当りGDPが国の豊かさを表わす指標となるが、市場で取引されている為替レートでなく、購買力平価の為替レートで換算するのが真の豊かさの比較になる。それによると、1990年日本の一人当りGDPは世界で21位だったが、2021年には37位まで転落。すでに台湾(14位)、韓国(30位)よりも貧しい国になっている。
 賃金のデータからも日本の貧困化が明らかである。OECD資料によると、日本の平均賃金は1990年37千ドル、2020年38千ドルで、この30年間ほとんど増加していない。アメリカは2020年69千ドルで1990年から47%増加、ドイツは54千ドルで34%増加。1990年日本より低賃金だった英仏も順調に伸びて、2020年共に日本の1・2倍程度になっている。韓国は42千ドルで、2015年にすでに日本を追い抜いている。
 日本経済の低落は株価の低迷からもうかがえる。日本の株価は1989年3万8915円のピークに達し、その後30年これを超えることなく、現在に至っている。この間、アメリカの株価は9倍、ドイツは7・4倍になっている。世界経済に占める日本経済のシェアは1989年15・3%あったが、2018年には5・9%に縮小している。
 日本は今や経済大国でも何でもなく、はたして先進国といえるかどうかも危うい、さえない国になっている。日本は世界に冠たる経済大国だという認識があったが、真の豊かさの指標である購買力平価による一人当りGDPで見ると、実は日本の経済が最も強かった時代も、G7の中でせいぜい4位か5位で、トップに立ったことはなかった。
 近い将来日本経済が力強く復活するようにも見えない。長引くコロナで経済は収縮し、ウクライナ戦争でエネルギー資源費が高騰して世界的にインフレが進んでいる。アメリカは過度なインフレを警戒して政策金利を引き上げたが、日米の金利差が開いて急激に円安が進み、エネルギー資源費がダブルで高騰して日本経済に悪いインフレをもたらしている。日本も欧米と同様政策金利を上げたいが、景気を悪化させる懸念と、日本の1,100兆円という膨大な国債のゆえ、金利を簡単に上げることができない。金利を上げると政府は税収の相当割合を国債の利払いに充当しなければならず、増税なしでまともな予算を組むことができなくなる。
 どうして日本経済はこれほど凋落したのか。エコノミストが、バブル崩壊後の不良債権の処理の失敗(不徹底と遅延)、構造改革の失敗(不十分)、デフレ脱却の失敗、企業が昭和の成功体験にあぐらを欠き、ビジネスモデルの変革に失敗したことなどを原因として挙げている。私は経済凋落の根本原因は日本企業の競争力の喪失にあると考えるが、経済力をベースとするとはいえ、国力を論じるならば、単に企業経営だけでなく、人材、教育、政治と国家の運営、国家観、歴史認識、倫理道徳などを総合的に論じる必要がある。これについて次回考えてみたい。
(令和4年11月1日)

神田 淳(かんだすなお)
 元高知工科大学客員教授。
 著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。


知恩報恩<13>
川崎重工業株式会社 航空宇宙システムカンパニー 清田安志

 私は昨年1月から、航空機、潜水艦、誘導弾をはじめ各種防衛装備品を製造し、国防の一翼を担う防衛産業の川崎重工業株式会社でストラテジック・アドバイザー(顧問)として勤務しております。
 現職時には様々な経験をして参りましたが、私にとりまして最も大きく影響しているものは、第8飛行隊長(高遊原)時の2002年3月7日夜に発生した航空機事故です。NVG(ナイト・ビジョン・ゴーグル、暗視装置)による夜間飛行訓練中、大分県万年山で2機のOH-6Dが空中接触し部下4名の尊い命が失われました。事故調査の結果、事故原因については、機体や天候には問題がなく、狭視野のNVG特性、高度差と離隔による視認消失、通報位置の誤認など様々な要因が重複していたと類推されました。危険度の高い訓練であることは飛行隊全隊員深く認識しておりましたが、殉職者を出してしまったことは痛恨の極みでありました。事故後は、ご遺族の対応を第一優先に様々な対応に追われましたが、自問自答の日々が続く中、元上司から頂いた言葉には「人生に無駄はない」と書かれてあり、苦しい中での本当の励みになりました。数多くの方々からの温かいご支援を頂いたことは、今でも感謝しておりその御恩は決して忘れることはありません。
 その事故から2年後の2004年2月3日、殉職された4名の顔写真を胸ポケットにしのばせ、航空自衛隊千歳基地に立ちました。イラク復興支援群の先発隊長として挨拶をした際、見送りに来て下さった隊員家族を前に、「全員無事に連れて帰ってきます」と約束をしました。派遣隊員も家族も危険な地域に行くことは重々承知しており、万が一の覚悟をしていたことも確かです。私の地元である旭川市内には黄色いハンカチが掲げられ、「無事帰国」は全ての人々の念願でありました。大切な家族である隊員を引き連れていく指揮官の言葉としてなくてはならないものと深く認識しておりました。様々な努力とご支援等により、航空事故当時に激励を頂いた元上司の下で、6か月間に及ぶイラクで活動を無事終了し帰国することが出来ました。この間、現地での蘭軍や米英軍などによる支援もありましたが、現地派遣部隊を支えた国内の努力は想像を絶する多大なものであり、家族や応援者を含め全ての関係者に対し、感謝しても感謝しきれません。
 任務が厳しくなるのと相対的に危険も高くなり、その責任を有する指揮官はそのジレンマに苛まれます。東日本大震災が発生し、2011年3月17日、福島第一原発3号機冷却のためのCH-47Jによる空中消火は、水素爆発や目に見えない放射能という危険との戦いでした。当時出来うる限りの防護処置を行い、まさに決死の任務であったことは世界中が認めるものでした。人類未曾有のコロナウィルスとの戦いにおいても、2020年2月、ダイヤモンド・プリンセス号での災害派遣活動では、万全な対策を講じた自衛隊は感染者ゼロで任務を完遂しました。まさに、危機管理の重要性を深く認識するものであると思います。
 コロナウィルス感染拡大の終息が見えない混沌とした中、2020年5月29日、医療従事者等への感謝を示すため、ブルーインパルス(T-4、川崎重工業製造)が都心上空で展示飛行を実施しました。入社して最初に感じたことは、航空業界も先行きが見えない中、このブルーインパルスによる力強い飛行が、未来を照らすように多くの国民の心に感謝と希望を届けていることを、プレジデント以下社員の誇りとしていることでした。
 2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が開始され、「ジャベリン」や「ハイマース」など装備品について多く報道されるようになりました。戦況が長期化し消耗戦の様相を呈してくると装備品や弾薬の供給が重要な要素となります。国家としての明確な国防戦略の下、兵士と装備とその練度、そして国民の意思が国の命運を分けます。私は防衛産業に身を置くものとして、作戦運用に適合し信頼性の高い優れた防衛装備品を供給していく防衛産業の重要性について、国民レベルで理解促進されることを期待しております。また、より良い防衛装備品の製造等に微力ながら尽くしていけることに感謝し、少しでも恩返しがしたいと思っております。
 「刻石流水」、受けた恩義はどんなに小さくても心の石に刻み、施したことは水に流すとの意味です。感謝と恩返しの気持ちを忘れず、会社の顧問として、自衛隊のOBとして、また、一個人として、 "健康第一" で、自分の出来ることに精励し、修養に励んでいきたいと思っています。

(筆者略歴)
 防大29期生、中部方面航空隊長(八尾)、第1ヘリコプター団長(木更津)、陸上幕僚監部監察官(市ヶ谷)、陸上幕僚監部監理部長(市ヶ谷)、第12旅団長(相馬原)、第6師団長(神町)、統合幕僚学校長(目黒)を歴任
感謝と恩返し


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