今年5月、沖縄は本土復帰50年を迎えました。先の大戦で沖縄は国内で唯一の地上戦となり、米軍による激しい砲撃「鉄の暴風」にさらされました。人口の4分の1が戦没したといわれる過酷な戦争の時代に巻き込まれました。
戦後も、厳しい惨めな収容所生活を余儀なくされ、米国の施政下で、筆舌に尽くし難い苦難の道は続きました。
1972年5月15日の復帰から半世紀。沖縄は不死鳥のように蘇りました。これを可能にしたのは、何よりも沖縄の人々自身の不断の努力・尽力の賜物です。本土(政府)からの厚い支援も忘れてはならないでしょう。今では沖縄は行ってみたい所、住んでみたい所ランキングで北海道と1,2を争う県となっています。沖縄は、多くの本土の人びとの憧れの地なのです。
復帰当時の自衛隊、自衛隊員にとりまして、また、ちょうどこの年の4月に防衛庁に入ったばかりの僕にとっても、沖縄の本土復帰は特別な感慨を抱くことでもありました。1972年5月15日の本土復帰と同時に沖縄の防衛任務は自衛隊が担います。そのため沖縄に赴任する自衛隊員の食事用の所謂「鍋や釜」を、5月15日に先駆けて沖縄に送りました。ところが、それが「復帰の先取りだ」として問題になり、国会でも大きく取り上げられました。所謂「鍋釜事件」です。
自衛隊は旧軍とは全く異なる存在とはいえ、復帰に伴って自衛隊が沖縄に展開することについては、先の戦争の凄まじい体験・記憶が鮮明な沖縄の人びとにとって、違和感、中には嫌悪感をも覚えたことがあったのは確かだと思います。そうしたこともあって、当時沖縄に赴任した自衛隊員は、多くの苦労を経験したと記録されています。子弟の教育や生活一つとっても厳しい状況でした。
しかし、自衛隊員一人ひとりが沖縄の皆さんの、あるいは誤解を解き理解を求めて真摯に向き合い、地域に溶け込み、様々な分野で協力活動を積み重ねて来た尽力の結果、今や自衛隊は復帰直後には考えられなかった、信頼され頼られる身近な存在となっています。自衛隊員は、沖縄の皆さんの「良き隣人」なのです。
ここで、那覇防衛施設局(現 沖縄防衛局)の皆さんの活躍をぜひ知って頂きたいと思います。
自衛隊と同様、復帰後、那覇防衛施設局は大変難しい立場にありました。自衛隊及び在冲米軍と沖縄の皆さんとの懸け橋的存在である那覇防衛施設局。その職員のかなりの部分は地元の方、ウチナーンチュなのです。以前、ある職員の方は、施設局に勤めていると言うと門中(沖縄で同族のこと)の長老から睨まれた、親族からいろいろ言われた、と冗談めかして話してくれました。
沖縄は親族の結束が固い土地、時にはご先祖さまも口をはさむ所なので職員は大変な思いを抱いて職務に励んでいたに違いありません。
私たちは、とかく南国の人はのんびりしている・持久力がないなどと勝手な想像をしがちです。しかし、施設局(防衛局)のウチナーンチュの仕事ぶりをご覧になれば、自分がいかに間違った認識を持っていたかを思い知らされるにちがいありません。
施設局(防衛局)の仕事は広範多岐にわたります。そのいずれもが直接に地元の人たちの生活に響く難しさがあります。簡単に解決できるケースはほとんどありません。昼間の話だけでは終わりません。南国の夜は長いのです。何度も何度も伺って説明し、説得し、住民の方に納得していただく気の遠くなるような過程が必要となります。時には信頼関係を基盤として、自衛隊や在冲米軍に対し厳しい申し入れ等を行うことも重要な任務です。
「施設局(防衛局)」・「自衛隊/在冲米軍」・「沖縄の皆さん」との「信頼のトライアングル」の構築。
施設局(防衛局)職員は、それをやり切って来ています。ヤマトンチュ(本土)の職員も例外ではありません。沖縄防衛局の職員の皆さんの日々の労苦が、自衛隊や在冲米軍の駐屯地や基地を支え各種の活動を支えていると言っても過言ではありません。
沖縄のみならず全国の地方防衛局の皆さんも、それぞれに自衛隊や在日米軍の円滑な運用等を確保するため、今この時間も地元の皆さんのもとに伺い、理解を得るべく懸命に尽力されていることと思います。
ご苦労の多い大変な任務ですが、頼みます。
Yes,you can do it!
北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事 |