1941-1945年、日本は米国と戦い(太平洋戦争、大東亜戦争)、徹底的に敗れた。敗戦は国力の喪失だけでなく、日本人の誇りを失わしめた。日本に未曾有の苦しみをもたらしたあの戦争はどうして起きたのか。
戦勝国による秩序のなかで成立した戦後の歴史は、ほぼ一方的に日本の侵略戦争に原因があるとする。軍国主義化した日本がアジアを侵略。米国は日中戦争を戦う蒋介石を支援。米の支援を絶とうとする日本の動きに対して、米は1939年日米通商航海条約を廃棄。翌年には、武器・軍需品(機械・ガソリン)の対日輸出を許可制とし、また屑鉄・鉄鋼の輸出を禁止。そして1941年7月日本軍の南部仏印進駐を見て、在米日本人資産を凍結し、石油の対日輸出を禁止した。12月日本はハワイ真珠湾を奇襲。日米戦争が始まった。
開戦したのは日本だが、Ch.A.ビーアド著『ルーズベルトの責任』、フーバー著『裏切られた自由』等の著作(注)は、ルーズベルト大統領が日本を開戦に追いつめていった歴史を明らかにしている。
1939年9月よりヨーロッパで第二次世界大戦が始まっていた。ルーズベルト大統領はどうしてもこれに参戦したかったが、なかなかできなかった。1940年11月の大統領選でルーズベルトは史上初の三選を果たしたが、選挙戦で「アメリカは参戦しない、アメリカの若者を戦地に送らない」と公約していたからである。アメリカ世論の圧倒的多数は、ヨーロッパの争いに介入することに反対だった。
ルーズベルトは、ラジオの炉端談話でナチスドイツの恐怖を国民に語りかけた。大西洋をパトロール中の米国の駆逐艦がドイツの潜水艦に攻撃されたと発表し、ドイツを非難した(ドイツは攻撃を否定)。しかし、ルーズベルトが期待したような参戦の世論は盛り上がらなかった。
ルーズベルトは、ドイツと同盟関係にある日本を追いつめ、日本に最初の攻撃をさせて、第二次世界大戦に参戦する戦略に切り替えた。ルーズベルト政権は、日本を敵視する外交をエスカレートさせ、1941年7月には日本の在米資産を凍結し、8月には石油の対日輸出を禁じた。
アメリカとの戦争を絶対に避けたい日本は、必死の歩み寄りをみせた。しかし戦争を望むルーズベルト政権に拒絶された。11月26日、ハル国務長官は野村大使に覚書き(ハル・ノート)を手交した。これは、「日本は中国からすべての陸海空軍の兵力および警察力を引き揚げるべし」といった、交渉経緯を無視した要求で、事実上の最後通告(Ultimatum)だった。ハルはこれが事実上の最後通告と認識しており、日本が遠からず米国を攻撃してくると確信していた。
日本政府もこれを最後通告と受け止めた。窮鼠と化した日本は一か八かの対米開戦を決意し、真珠湾を攻撃した。ルーズベルトは議会で「日本と平和の維持を見据えた交渉中の米国(これはウソだが)が、日本の海軍と空軍によって突然の、卑劣な攻撃を受けた」と怒りの演説を行い、議会の宣戦布告をとりつけた。こうしてルーズベルトは念願の第二次世界大戦への参戦に成功したのである。
私は日本の開戦責任を免責したいわけではない。陸軍に支配され、日中戦争を収束できなかった日本の指導者の責任は非常に重い。ただ、日米の開戦に一方的に日本に原因があるといった史観は正さなければならないと思う。一国だけでなく、戦った両国の歴史と事実をつぶさに見て判断しなければならない。
(注)渡辺惣樹著『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』、加瀬・藤井・稲村・茂木著『日米戦争を起こしたのは誰か』
(令和2年4月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |