トルコは親日的な国であるが、それは明治にさかのぼる。1890(明治23)年、トルコの使節団が軍艦エルトゥールル号で日本を親善訪問。親善の全日程を終え、帰国の途についたが、9月16日の夜、艦船は和歌山県南端の大島沖で台風に会い、岩礁に乗り上げて大破。五百数十名の乗組員が死亡または行方不明となったが、大島樫野地区の村民が懸命の救助活動を行い、69名のトルコ人の命を救った。
日本海軍の巡洋艦で無事本国に送りとどけられた69名の生還者は、自分たちに対する日本人の献身的な行為を伝え、深くトルコの人々の胸を打った。エルトゥールル号の遭難事件はその後トルコの教科書にも載せられ、トルコ人の親日感情の源となった。
その後百年近く経った1985年3月17日、イラン・イラク戦争が激化する中、イラクのフセイン大統領は、イラン上空を戦争空域に指定し、48時間の猶予期間以降イラン上空を飛ぶ飛行機は無差別に攻撃すると宣言した。イランに住む日本人以外の外国人は、自国の航空会社や軍の派遣した輸送機で次々と脱出していったが、日本人を救出する飛行機は日本から来なかった。
在イラン野村日本大使は本省に救援機派遣要請をしたが、本省から「イランとイラク両国から安全保証の確約を取れ」と、取り付け困難な訓令を受けた。政府は日本航空にチャーター便の派遣を要請したが、乗組員の安全が保証されないといった組合の意見などにより事実上拒否された。また、当時の自衛隊法は外国における活動を想定しておらず、政府専用機もなく、自衛隊の派遣はできなかった。在イラン日本大使館は救援機を派遣した各国に在留日本人救出を依頼したが、自国民優先で、拒否された。
そんな中、伊藤忠のトルコ・イスタンブール所長森永堯は、本社の要請を受けて、旧知であるトルコ首相のオザルに、トルコ人救出のための救援機に日本人を乗せてくれるよう必死で依頼した。そしてオザル首相より奇跡的な「イエス」の返答を得た。トルコ航空の2機がイランに派遣され、無差別攻撃のタイムリミット直前の3月19日の夕方、215名の日本人をテヘランから脱出させた。
テヘランにはまだ多数のトルコ人がいたが、2機の特別機への搭乗は日本人が優先された。500人以上のトルコ人がやむなく陸路(車)で帰国した。これに関し、政府を非難したトルコ人は一人もいなかった。トルコ航空ではオザル首相の決断を受けてただちにミーティングを開き、特別機への志願者を募ったが、その場にいたパイロット全員が志願した。
なぜトルコは日本に対してそこまでしてくれたのか。後日、駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と言ったと伝えられる。
この日本・トルコの交友関係の歴史を見て強く感じるのは、立派なトルコ人と明治の日本人、そして情けない現代の日本の姿である。
その後、自衛隊法が何度か改正され、2015年の安全保障関連法の成立によって、在外邦人の保護措置として自衛隊による「警護」と「救出」が可能となった。しかしその実行には非常に難しい条件が付されている。海外での邦人救出を今後も外国に多くを依存すれば、それは日本がこうした国と対等に付き合えないことを意味する。国家の独立に係わる非常に重い課題である。
(令和2年3月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |