日本の民主主義は戦後始まったと思っている日本人が時々いるが、実は戦前の日本も立派な立憲民主制の国家だった。
近代憲法(大日本帝国憲法)が1889年(明治22)制定されており、1890年選挙が実施され、同年より国会(帝国議会)が開かれた。国会には立法権と国の歳入・歳出の審議権が与えられていた。戦前日本の、民より選ばれた議員が衆議院で国政に参加する民主政治の実績は決して小さくない。
大正になって、民衆の政治への関心が高まり、政党の力も強まった(大正デモクラシー)。1918年(大正7)、立憲政友会総裁原敬は、陸・海軍大臣など一部を除く閣僚をすべて立憲政友会党員から選ぶ本格的な政党内閣を組織した。1925年(大正14)、満25歳以上のすべての男子が選挙権をもつ普通選挙法が成立した。その後、犬養内閣が1932年(昭和7)五・一五事件で倒れるまでの8年ほど、衆議院に基礎をもつ政党が交代で内閣を組織する「憲政の常道」が実現していた。
1931年(昭和6)満州事変以降、軍部が力をもち国政を牛耳るようになった。1940年(昭和15)、大政翼賛会が結成された。政党ではなく、政府の方針に協賛する官製の組織だった。日本はこの時期、戦争遂行を至上目的とする軍部の支配する国家となっていた。
欧米の民主主義は市民革命で進展した。明治維新は市民革命という見方も十分できる。維新政府の施政方針は次の「五箇条の御誓文」に示されている。一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。一、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし。一、官武一途庶民に至る迄各(おのおの)その志を遂げ人心をして倦まざらしめん事と要す。以下省略するが、十分民主的な国家の基本方針といえる。
明治日本の民主的傾向は、欧米諸国の影響が大きかったが、日本の伝統にないことではなかった。外国と比較すると、日本は独裁を嫌う歴史・文化をもつことがわかる。大事なことは話し合って、衆議によって決める。江戸時代、独裁者として振舞う藩主はほとんどなく、藩政は家臣の衆議によっていた。政治は武士による専制だったが、農工商における自治は、集落や団体での集会と決定など、民主的に行われていた。
日本の民主主義には長い歴史がある。聖徳太子の定めた十七条憲法の、「一に曰く、和をもって貴しとなし、ーーー上和らぎ、下睦びて、事を論(あげつら)うにかなうときは、事理おのずから通ずーーー」、「十七に曰く、夫れ事は独り定むべからず。必ず衆とともに論うべし。小事は是軽し。必ずしも衆とすべからず。唯、大事を論うにおよびては、もしくは失(あやまち)あらんことを疑う。故に衆と相弁(わきま)うるとき、辞(こと)すなわち理(ことわり)を得ん」は、立派な民主主義思想である。憲法の最初の条と最後の条に、(特に大事は)必ず衆議によって決めよと言っている。
戦後日本の民主主義はアメリカによったが、それが定着したのは日本に民主主義の伝統があったからである。それにしても、日本の現国会はあまりにも些末な質疑が多い。そして今後の国政を左右する肝心な法案の審議には、野党が出席拒否したりする。せっかくの民主主義制度である。われわれ選挙民の責任でその運用を改善していきたい。
令和2年2月1日
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |