文部科学省が2017年、小中学校の学習指導要領の改定案として、聖徳太子の名前を、小学校では「聖徳太子(厩戸王)」、中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記することにし、パブリックコメントを求めた。多くの国民から反対意見が寄せられて、文科省はこの案を取り下げ、従来通り「聖徳太子」の単一表記となった。
国民の良識が、文科省の愚行を阻んだと私は考える。文科省の改定案の根拠は、「聖徳太子は当時おそらく聖徳太子とは呼ばれておらず、厩戸王と呼ばれていたと推定される」といった、あやふやなものであり、改正の必然性は全くない。国民はこの改定案の背景に、日本の歴史から聖徳太子を抹殺し、日本の歴史を貶めようとする勢力(左翼、および中韓)の存在を感じたと思う。
田中英道と伊藤隆は、日本国史学会誌(第十号、平成29年)で、聖徳太子の名が厩戸王のあとカッコで付けられる表記は誤りであると、以下のように明確に述べている。
『日本書紀』(720年)においては皇太子と書かれているが、706年においては、「上宮太子聖徳皇」と書かれ、一般にそれまで「聖徳」の名が使われていたことを証拠立てる。『日本書紀』の敏達天皇の条に、娘が「東宮聖徳」に嫁すと書かれており、当時から「聖徳」の名が使われていることを示唆している。また法隆寺金堂の薬師如来座像の光背銘に、「聖王」と書かれ、その造像記には、推古15年(607年)とされているから、その年代から「聖王」と呼ばれていたことがわかる。厩戸王を支持する学者たちが間違っているのは、『日本書紀』に書かれていることは皆、捏造だという戦後の歴史学者の、天皇・藤原権力の維持のために『記・紀』が書かれたという偏見に基づいているからである。仏教の注釈書『三経義疏』も聖徳太子自身が書いたことは実証されているし、『十七憲法』も聖徳太子の編纂によるものであることは明らかである。聖徳太子は生前より深く尊敬されており、「聖徳」の名は当時から言われていた「上宮法王」や「豊聡耳命」に合致するもので、厩戸王などと書く必要は全くないーーー。
聖徳太子は類まれなる聡明な人で、人の意見を聴いて直ちに深い理解を示す、日本人が最も尊敬した指導者であった。聖徳太子は日本で初めて国家理念を明確にもち、太子の定めた十七条憲法の第一条「和を以って貴しとす」は、日本の国のかたちとして現在もなお生きている。
十七条憲法はすばらしいが、特に第十条はこの憲法の白眉である。「十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。彼是とすれば、我は非とす。我是とすれば彼は非とす。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、た(言偏に巨)れかよく定むべけんや。相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって彼の人は瞋(いか)ると雖も還って我が失を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従い同じく行え」
個人は皆違っており、違いはその人の尊厳そのものである。他の意見を尊重し、自己の絶対性を否定する。民主主義の基本となる考え方を、聖徳太子は実に美しい達意の表現で述べている。
日本人は聖徳太子を聖者とみなし、太子を信仰する態度は歴史の早い時期に成立した。こうした歴史的事実を軽んじてはならない。
(令和元年10月1日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |