1972年5月15日、沖縄復帰。今月は、その日から46年目を迎えます。
この間、沖縄の人口は、約97万人から1・5倍の約145万人へと大幅に増加して来ました。全国的に人口減少が継続する中にあって、沖縄は右肩上がりを示しています。
また、内外の沖縄ファンは多く、入域観光客数は、復帰当時の約44万人から21倍もの約940万人へと大幅に増加して来ています。沖縄は観光立県として、これからも順調に訪問客、「沖縄大好き人間」のリピーターを増やしてして行くことでしょう。
しかし、決してこれまで順調に推移して来たわけではありません。そこには、今も基本的には変わらない沖縄の過重な基地負担をめぐる特殊性があります。世界中を震撼させた2001年9月11日の米国同時多発テロ事件。そのとき国内で急速に高まったのが、「沖縄の米軍基地はテロの攻撃目標になるのではないか」との不安でした。修学旅行をはじめ観光旅行は中止・キャンセルが激増、入域観光客数は大幅に落ち込みました。…このときの沖縄の皆さんの心中は、どんなだったでしょうか。
政府は、沖縄の皆さんの安全を確保し、過重な基地負担を軽減するため、米軍基地の整理・縮小をはじめ、事件や事故の再発防止、航空機騒音や環境対策等に懸命に取り組んで来ています。しかし事件や事故等は、今なおしばしば発生しています。
沖縄の基地問題には、復帰以前から今日に至るまで、幾多の長く辛い歴史や経緯があります。かつて沖縄の方から、「今起きている事件や事故を、単発の点として捉えるのではなく、線上の点として捉えて欲しい。対応も異なってくるのではないか」と言われたことを忘れることはできません。
そして、全ての在沖米軍の皆さんには、名実ともに沖縄の皆さんの「良き隣人」であって欲しいと思います。決して「遠い」隣人ではなく、真に「近く」の「良き隣人」として。
現在、特に重要な基地問題は、辺野古沖での工事が進められている普天間飛行場の移設です。誰でも自由に登れる嘉数高台(かかずたかだい)の展望台から普天間飛行場を一望するとき、宜野湾市民の皆さんの住宅や学校、病院などが、普天間飛行場を取り巻くようにドーナッツ状にひしめき合い、説明のいらない世界一危険な飛行場の実態が目前に迫ります。普天間飛行場の移設実現は、市民の皆さんの安全に係る焦眉の急です。
私は、本土に在る私たちが、沖縄の皆さんの基地負担の実態を、少しでも「皮膚感覚」で体感するように努めたり、基地問題に対する沖縄の皆さんとの「温度差」を、少しでも縮めるよう努めて行くことは、沖縄の皆さんが一番大切にしている「チムグクル(肝心)」に通じるように思います。
そんなことを考えていますと、常に沖縄に寄り添い、沖縄の発展に全力を尽くされ、一貫して平和な国を築くため行動して来られた野中広務先生のことが浮かんで参ります。前述の嘉数高台は、先の沖縄戦の激戦地の一つ。ここでの戦没者の多くは京都出身でした。この場所に、御霊の冥福と世界の恒久平和を祈り建立された「京都の塔」の碑文には、野中広務先生の沖縄の皆さんに対する思いも込められています。「…また多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶へない…」
「京都の塔を整備した人たちの中で、残っているのはとうとう自分ひとりになってしまった」と語っていた野中広務先生。
4月14日に京都で行われたお別れの会でのご遺影は、益々大切になって来ていることは何かを熱く語りかける、そんなお顔です。
北原 巖男(きたはらいわお)中央大学。70歳。長野県伊那市高遠町出身。元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現(一社)日本東ティモール協会会長 |