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厳粛に19年度「橘祭」 |
《板妻》 |
遺徳を偲び、末永く後生に伝える |
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旧歩兵34聯隊の伝統を継承する板妻駐屯地(司令・三浦直人1佐)は8月25日、駐屯地体育館で「平成19年度橘祭」を盛大かつ厳粛に行った。
この行事は郷土部隊として名高い旧歩兵34聯隊が生んだ軍神橘中佐の遺徳を偲び末永く後世に伝えることを目的に、三四会、静岡県防衛協会及び板妻駐屯地OB会の協賛を得て行われている。
式には橘中佐ご後裔の橘周次郎氏、内田軍曹ご後裔の内田英男夫妻氏、倉田雅年衆議院議員はじめ、内外多数のご来賓約240名が参列した。
執行者の三浦駐屯地司令は「本年、防衛省となり自衛隊の任務・役割も多様化・拡大化方向にあり、自衛隊に対する期待も高くなってきています。今こそ、国を思い、常に部下とともにあるという橘中佐の精神が必要となり、重要性を増していくものと認識する次第です。私どもは、橘精神を継承する伝統ある部隊であることを誇りとして、橘中佐の偉大な功績を後世に伝えるとともに、国民とりわけ静岡県を警備隊区とする板妻駐屯地として、『より信頼される駐屯地、いざというときに役に立てる駐屯地』を目指し精進することをあらためて誓うものであります。(要旨)」と式辞を述べ、詩吟の勝呂邦心先生が声高らかに献詠し、参列者全員が軍歌「橘中佐」を合唱し橘中佐の遺影に献花した。
引き続き、橘中佐ゆかりの部隊、守山35普連、板妻34普連の代表選手による銃剣道、34普連徒手格闘訓練隊の奉納試合が披露された。その後、参列者らは隊員食堂で和やかな雰囲気のなかで記念会食を行い橘祭は滞りなく終了した。 |
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《岩国》 |
予科練1期生が講話 |
「海軍の操縦教育と精神教育」 |
大平洋戦争の思い出語る |
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第31航空群(群司令・植月政則海将補)は7月31日、岩国在住で旧海軍予科練1期生出身の伊藤進氏(92歳)による教養講和を実施した。
伊藤氏は、大正3年生まれで、昭和5年に予科練1期生として海軍へ入隊され、連合艦隊等の前線配備のほか、霞ヶ浦海軍航空隊陸上機操縦教員、岩国海軍航空隊開設準備委員等を経て、伊21号潜水艦乗組飛行長として真珠湾攻撃に参加、その後も帝都防衛戦闘機隊分隊長などで活躍され、開発中のロケット戦闘機「秋水」のテストパイロットに任命された直後に終戦を迎えられた。
旧海軍の小型機操縦士では最長となる約6000時間の飛行経験を有しておられ、聴講した隊員は、旧海軍の航空史そのものに直接触れることができた。
特に、真珠湾攻撃では空母追撃のため米国西海岸まで追尾して米国西海岸に到達し、付近の通商破壊や米本土への砲撃に従事したことや、帝都防衛戦闘機隊では「雷電」部隊の上空指揮官としてB29を迎撃したことなど、映画や書籍では知ることができない貴重な講和をいただくことができた。
伊藤氏の講和は「いかなる時でも、海軍は『指揮官先頭』でなければならない」という言葉で締めくくられた。
聴講者からの「実戦経験のない海上自衛官へのアドバイスは」の質問に対し、「敵機の銃弾をかいくぐる経験が無いということは平和の証であり、皆さんは幸せだと思う。しかし、もし戦争になれば、皆さんが必ず日本を守ってくれると信じている」とのメッセージを残された。
約200名の聴講者は、まるで映画を見ているかのように2時間の講和に聞き入り、海上武人としての誓いを新たにした。 |
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『統幕四季の会」 |
大沼 肇 |
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防衛庁統合幕僚会議・防衛庁統合幕僚会議事務局は、昭和二十九年七月一日に設立・以来、昨年三月二十七日統合幕僚監部が設立と同時にその名称組織も改編された。
この半世紀の間、統幕事務局の各幕僚室に所属し統合運用基盤の確立の為に管理部門の一翼を担当し貢献した陸自・海自・空自・事務官の各自衛隊OBの集まりである『統幕四季の会』(金子昌弘代表)は、昨年に引き続き今年も台風9号の吹き返しの中、九月七日グランドヒル市ヶ谷に集合した。遠くは、高崎・上野原・鳥取からも嵐の中を馳せ参じ、旧交を喜び合った。今回は、一月九日に防衛庁が念願の防衛省に移行した記念すべき年でもあり『オプショナル・ツアー』として『市ヶ谷台見学ツアー』が組み入れられ実施された。特に『市ヶ谷記念館』では、歴史の流れに感慨無量のものを感じたようであった。午後四時から懇親会に入り互いに齢を重ねたとはいえ人生意気に感じ花も嵐も踏み越えて来た青春時代の戦友同志。肩をたたき合うほどに話題は、苦楽を共にしたあの日、あの時にタイムスリップし、一杯一杯また一杯と盃を重ね旧交を温めた。なつかしく楽しい時間は、時の経つのを忘れる程だった。午後七時、この会のテーマソング『四季の歌』を全員で合唱し『友よ、来年も元気で逢ほう』と再会を約し、万歳三唱で盛会裡のうちに幕を閉じた。 |
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※『統幕四季の会』とは、陸自・海自・空自・事務官の四機関から、統幕事務局に派遣され一年・一年四季(春・夏・秋・冬)を通じて士気高くわが国の防衛の為に献身努力し、今は、それぞれに四季の花のようにおだやかに咲いているOBの集まりである。 |
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彰古館 往来 |
陸自三宿駐屯地・衛生学校 |
<シリーズ67> |
第一次世界大戦の記録 (4) |
戦傷者の選別=トリアージ |
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ナポレオンがエジプト遠征をしたときのことです。ナポレオンは、戦場に医者を随行させました。
それまでのヨーロッパの戦争は主に領主間の争いで、兵士の補充は領地内で簡単にできたので、戦傷者はそのまま放置されたのです。
これが海外への遠征となりますと補充もままなりません。そこで、負傷者を治療して戦線復帰させることになったのです。
ところが医者は負傷者に掛かりきりで、その間に多くの兵士が死んでいきます。ナポレオンは、一人の重傷者を助けるために中・軽傷者が死ぬのは本意では無い。治療に優先順位をつけるように命じました。この発想がトリアージです。
第一次世界大戦においてはこの思想は行き渡っており、一人の重傷者に貴重な時間や薬剤、医療機材、スタッフなどが集中してしまわないように、治療システムが完成していました。
写真集では随所に患者の区分が示されており、効率的な大量傷者の治療のためにトリアージが行われていたことが理解できます。
近年、国内の救急医療の現場で盛んにトリアージという言葉が聞かれますが、これは決して瀕死の重傷者を見捨てるという行為ではありません。患者に優先順位をつけるということから誤解を受けることがありますが、大規模災害時に大量に発生した負傷者を効率よく治療するためのノウハウとして、戦時医療が参考にされているのです。負傷者達の明るい表情が、無言でそれを物語っております。
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