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   2007年10月1日号
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5旅団・帯広駐屯地で記念行事
6普連隊員378名が堂々の徒歩行進を行い会場を沸かせた
 第5旅団(旅団長・寺崎芳治陸将補)は9月9日、第5旅団創立3周年記念行事及び帯広駐屯地創設56周年記念行事を挙行した。
 当日は晴天に恵まれ、地域住民や隊員家族など昨年を大幅に上回る約8840人が駐屯地を訪れた。
 式典では、執行官の寺崎旅団長が「我々は日々変化する時代に適応し、その時々に発生する各種の多様な事態に迅速かつ的確に対処するとともに、将来の脅威に即応し得る基盤を今後とも保持しなければならない。このため、武装集団としての矜持を持ち、実力の涵養に努め、より即応性実効性を高め、真に役立つ強くしなやかな組織として今後とも地域の皆様の期待や信頼に応えられるよう日々努力することを改めてここに決意する」と式辞を述べた。続いて中川昭一衆議院議員、鈴木宗男衆議院議員、石川知裕衆議院議員及び砂川敏文帯広市長など来賓による祝辞が述べられた。
 引き続き行われた観閲行進では、観閲部隊指揮官の濱崎副旅団長を先頭に隊員1733名、車両(戦車・装甲車など含む)181両及びヘリコプター10機が堂々たる行進を行った。今年は、第6普通科連隊による威風堂々とした徒歩行進も披露され会場からは大歓声が送られた。観客から人気の高い訓練展示では、火砲・戦車の空砲射撃による轟音で訪れた観客を圧倒。2年振りに第1空挺団による空挺降下も行われ会場を盛り上げた。
 また、アトラクション会場では、毎年人気のチビッ子広場、第5音楽隊演奏、よさこいソーラン、バトントワリング(=写真)、装備品展示、試乗コーナー及び駐屯地資料館見学コーナーは今年も大盛況のうちに終了した。また、第5旅団広報班と帯広地本合同による広報コーナーでは、チビッ子を対象にしたミニ制服・戦闘服を試着しての記念撮影コーナーも設けられ、家族連れで大いに賑わった。

4師団が訓練検閲
任務遂行に向け一致団結
第4飛行隊によるオートバイの空輸
 第4師団は、8月21日から29日の間、日出生台演習場及び十文字原演習場並びに同周辺地域において、「平成19年度師団第1次訓練検閲」を実施した。
 宮島俊信師団長は検閲開始にあたり、各受閲部隊に対し「命令・号令の徹底」「基本・基礎の徹底」「不撓不屈の精神」の3点を要望した。受閲部隊は23日から27日の5日間の連続状況下において、平素の教育訓練の成果を遺憾なく発揮し、与えられた任務を完遂した。
 第40戦闘団(団長・藤本和敏1佐=40普連隊長)は新隊員を含む全隊員が団結し、戦闘団長から「指揮官は意志を強要せよ」「地上と上空の敵を意識せよ」「強く美しい陣地を構築せよ」の3点の要望を受け、検閲に臨んだ。
 戦闘団は、状況開始とともに速やかに防御地域へ前進、防御準備に着手した。各級指揮官の的確な指揮の下で「撃てる」「撃たれない」「つぶされない」陣地の構築を目指し3日間にわたる不眠不休の工事を続け、堅固な防御陣地を概成させた。防御戦闘では、突入してくる敵戦車部隊を撃破しつつ、敵へリボン部隊に対して予備隊の配備変更により適切に対処、最終確保地域を円陣防御により確保して、戦闘団に与えられた任務を完遂した。
 その他、第4施設大隊、第4対舟艇対戦車隊、第4飛行隊も平素から練成した能力を遺憾なく発揮し、与えられた任務を完遂した。

中越沖地震災派の隊員と家族を慰労
《7師団》
 第7師団(師団長・用田和仁陸将)は9月5日、東千歳駐屯地大講堂で新潟県中越沖地震災害派遣終了に伴う派遣隊員及び派遣隊員家族に対する慰労会を実施し、その労をねぎらった。
 始めに生活支援隊隊長(第7後方支援連隊・篠2佐)の帰隊報告及び活動報告があり、その中で隊長は「がんばろう!輝く柏崎というキャッチフレーズのシールを中帽の横に張って
地域住民との一体感をもって頑張ってきました!」と報告した。
 最後に師団長は「国民の喜びそのものが我々の任務であり、今回まさに派遣を通じてその事を各人が体得したものと確信する」など派遣隊員に慰労の言葉を掛けるとともに、隊員を支えた家族に対して感謝の言葉を伝えた。
 また、報告行事の後は、第1食堂に場を移し慰労会食が行われた。

雪月花
 秋元康さんの小説「像の背中」が産経新聞に連載されていたとき筆者も熱心に読んだし当欄でも紹介した。10月には映画にもなる。がんで余命半年と宣告された主人公が病状を隠し、高校時代のツッパリ相手やすでに定年退職している元上司、昔の恋人などを訪ねて心の中でお礼を言いながらさようならを告げる、もちろん妻にも黙って――というストーリーだった。この現実版を弊社の金沢修治編集長が涙を浮べて話してくれた。高校、大学で同級の友人が亡くなったのは昨年の暮れ、ことしの初盆で編集長がお墓参りをした時、友人のお父さんが打ち明けてくれた。友人は全国紙の支局長を何か所か経て大阪本社に帰っていた。昨年の春ころから大分の実家に頻繁に帰るようになり家の人たちが仕事はどうなっているのかと心配していた。もうこのころには病状もすすんでいたのだろう。お葬式をすませた後、高校の恩師や同級生、幼友だちからの話で彼の心情が浮き上がってきた。あの小説と同じように何事も無いように自分だけが一方的に別れをしていたのだろう。病気の手遅れといえばそれまでだが、何とかならなかったのかと誰もが思う、誰もが涙を浮かべる事実だ。ぎりぎりまで本当のことは言わなかったそうだ。周囲に心配をかけたくないとの思いだったのだろうが残された者の気持ちは……

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