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500g機雷2発を処理 |
《下関基地隊》 |
「いえしま」水中処分員4名が揚収作業 |
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海自下関基地隊(司令・柴田孝宏1佐)所属の第43掃海隊「いえしま」(艇長・高橋幸治1尉)は2月21日から24日にかけて、若松海上保安部からの要請により、福岡県北九州市若松区柳崎沖の電源開発(株)3号埋立泊地で、民間の潜水士が潜水作業中に発見した爆発性危険物らしき物2個の調査・揚収作業を実施した。
21日、「いえしま」は現場に進出、若松海上保安部の巡視艇「わかかぜ」等が警戒する中、処分士・蓑田顕3尉以下4名の水中処分員が、ゴムボートに揚収器材を搭載、水深11メートルの海底に潜水し作業を開始した。発見海面が防波堤に囲まれていたため、潮流の影響は少ないものの、海底は粘土質で爆発性危険物らしき物体は、海底に貫入した状態で半分以上埋没しており、水中処分員は、先ず安全確認のため土を取り除く作業を実施した。海底は堅い粘土質で作業は困難を極め、翌22日にも引き続き実施されることとなった。
22日、午前8時47分、「いえしま」が現場に到着、水中処分員が調査した結果、爆発性危険物らしき物は機雷と判断、爆発の危険が低いことを確認した後、バルーンにより、海面近くまで浮上させ、ゴムボートで同艇まで曳航、後甲板に揚収した。揚収した爆発性危険物は、直径50センチメートル、長さ175センチメートル、重量466キログラムの米軍機雷だった。
また、23日から24日にかけて、2個目の目標に対し、佐世保警備隊水中処分員6名の支援を得て作業を実施し、直径47センチメートル、長さ164センチメートル、重量485キログラムの米軍機雷を揚収した。 |
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春の訪れ告げるサウンド |
佐音、定期演奏会開く |
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2月24日、佐世保市の「アルカス佐世保」で、佐世保音楽隊(隊長・竹内弘美1尉)が第35回定期演奏会を開催した。
今回の演奏会は、1月中旬から往復ハガキによる一般公募を行い、2275名の応募があった。当日は出足も好調で開演時には、ほぼ満席の状態だった。
第1部は、副隊長(鈴木勲2尉)の指揮で、明るく軽快なマーチを中心に「ブルースカイ」、「春風」、吹奏楽のための「射影の遺跡」、「風紋」、「ディスコ・キッド」、「アルヴァマー序曲」など6曲を演奏した。
第2部は、隊長の指揮により、吹奏楽のための「神話」〜天の岩屋戸の物語による〜と、交響曲第二番「オデッセイ」の第一楽章「イリアド」、第二楽章「ポセイドンの風」、第三楽章「カリプソの島」、第四楽章「イサカ」を演奏した。「神話」は、天照大神が天の岩屋戸に隠れてしまったために、世の中が暗闇に包まれてから、再び光を取り戻すまでを曲で表現し、「オデッセイ」は、トロイア戦争後、凱旋帰国する途中に主人公「オデュッセウス」が遭った10年間の遭難と、イサカで待つ妻に逢うまでを描いている。
第1部、第2部ともに大変高度な技量を必要とする曲ばかりで、無事に演奏を終えた隊員の顔には、深い安堵感と、満足の表情が見られ、同時に客席からは、隊員の演奏技量の高さと音楽性の豊かさに、尊敬と羨望のまなざしがむけられ、いつまでも惜しみない拍手が送られた。最後はアンコールの連呼に応え「彼の栄誉のために」と行進曲「軍艦」を演奏した。
春の訪れを告げるにふさわしく、さわやかな印象と余韻を残し、佐世保音楽隊「第35回定期演奏会」は幕を閉じた。 |
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28普連バイアスロンチームに有功章 |
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2月26日、第28普通科連隊(連隊長・四月朔日 徹1陸佐)の函館バイアスロンチームは、函館市内ホテルで行われた平成18年度函館市体育協会栄章表彰式において、平成17年度の宮様スキー国際競技会(優勝)、バイアスロン日本選手権大会(2位)の成績を高く評価され、函館市スポーツ有功章(団体の部)を受章した。
この章は、全国の各種スポーツ競技で優秀な成績を収めた函館市在住の個人及び団体に贈られるもので、今年で30回目を迎えた。
担任官の日田3佐(2中隊長)チーム監督の金澤1曹(2中隊)と選手代表の佐々木2曹(本管中隊)、成田士長(1中隊)及び田中士長(3中隊)は、表彰式に参加し、函館市体育協会の柳沢勝会長から、他の受章者とともに賞状と記念の盾を手渡された。 |
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新母港・横須賀へ「さわかぜ」、出港 |
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佐世保を母港としていた第2護衛隊群所属の護衛艦「さわかぜ」(艦長・横田文夫2佐)が、今年度末の護衛艦隊編成替えで、2月19日、新たな母港となる横須賀へ向け出港した。
「さわかぜ」は、昭和58年3月の就役以来約24年間、佐世保を定係港として日本の海を護り続けてきた。特に、平成9年に日本海沖で起きた「ナホトカ」号の油流出事故では、災害派遣で油の回収に当たったほか、平成14年には、テロ対策特別措置法に基づき約5カ月間、インド洋方面へ派遣された。
立神桟橋で行われた出港行事で佐世保地方総監(香田洋二海将)は、「さわかぜは今後も護衛艦隊の中枢を担って立派に頑張って欲しい」と送辞を述べた。
最後に「さわかぜ」艦長から「これまでの約24年間、佐世保市民に支えられ、任務を遂行できました。皆さんの支援と協力に感謝します。今後も艦の伝統を引き継ぎ活躍します」とあいさつした後、乗員は艦に乗り組み、佐世保に別れを告げ、横須賀へ向け出港した。 |
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《彰古館 往来》 |
陸自三宿駐屯地・衛生学校 |
『水師営会談の机』 |
陸軍軍医学校の残照(3) |
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明治38年(1905)1月1日、内地では正月を祝っている最中、日露戦争は劇的な終焉を迎えます。
12月6日の203高地占領後も頑強な抵抗を続けていたロシア軍アナトーリィ・ステッセル将軍が、遂に旅順開城を決心し、乃木希典大将に親書を送ったのです。
その直後、水師営第一師団から包帯所に「明2日、貴所を以って日露両軍の軍使会見所に当てるを以って準備せよ」との師団命令が下ります。
包帯所では、会見室として手術室を充当して準備を急ぎます。天井と四方の壁に手術用の白布を張り、急造手術台2個を並べ、白布を掛けて会見卓とします。
最前線のことで物資が不足しており、師団司令部から急遽、椅子とコーヒー茶碗を借用します。最後に赤十字と日の丸の旗が掲げられ、設営を終わります。
翌日、日本側からは伊地知幸介参謀長、ロシア軍側からは参謀長レイス大佐が参集し、午後1時から深夜11時まで開城談判が行われたのです。
この歴史的な降伏会議で使用された会見卓は、前日まで彼我の負傷者の鮮血が滴った手術台であり、テーブルクロスは手術室のシーツを洗濯したものです。それが今、終戦調印をする平和会議の席として使用されているとの感慨が、軍医達の胸に去来します。
今回の調査により、手術台を製作したのは、明治38年10月12日のことで、担架第一中隊森田清太郎一等卒、担架第二中隊石川分内一等卒の2人の手によるものと判明しております。
紐でつながれた目釘を抜きますと、戸板と四本の脚部に分解して移動できる急造の手術台です。
1月5日、水師営でロシア軍ステッセル将軍と乃木希典大将の会談が同所で開かれ、ここに日露戦争の幕が閉じられました。
日露戦争後、水師営の会見所は記念館として石碑が建てられ、観光名所となっていましたが、大東亜戦争終戦とともに破壊され、廃墟と化していました。
近年、再び整備がされましたが、修復された会見所には当時の手術台そのものが1台、奇跡的に残っており、今も展示されています。
一方、もう1台の手術台は日露戦争後、日章旗と赤十字旗とともに日本に持ち帰られ、陸軍軍医学校の参考館に、ガラスケースに入れられた状態で展示されていました。
参考館の所蔵品は、昭和31年(1956)、衛生学校内の参考品展示室(彰古館の前身)で公開されますが、その中に手術台の姿はありませんでした。
残る1台の手術台は、東京都港区が管理する乃木大将の旧邸宅に衛生学校から寄贈されていたのです。現在、建物内部こそ非公開ですが、旧邸宅自体は公開されています。水師営から陸軍軍医学校、そして国立第一病院、衛生学校を経て、今も乃木邸内に手術台が保存されているのです。
歴史上名を残すことの無かった一兵卒達。彼等の手作りの粗末な手術台が、100年の時を経過した今も、歴史的な史実の目撃者として、水師営と旧乃木邸に眠っているのです。
佐世保を母港としていた第2護衛隊群所属の護衛艦「さわかぜ」(艦長・横田文夫2佐)が、今年度末の護衛艦隊編成替えで、2月19日、新たな母港となる横須賀へ向け出港した。
「さわかぜ」は、昭和58年3月の就役以来約24年間、佐世保を定係港として日本の海を護り続けてきた。特に、平成9年に日本海沖で起きた「ナホトカ」号の油流出事故では、災害派遣で油の回収に当たったほか、平成14年には、テロ対策特別措置法に基づき約5カ月間、インド洋方面へ派遣された。
立神桟橋で行われた出港行事で佐世保地方総監(香田洋二海将)は、「さわかぜは今後も護衛艦隊の中枢を担って立派に頑張って欲しい」と送辞を述べた。
最後に「さわかぜ」艦長から「これまでの約24年間、佐世保市民に支えられ、任務を遂行できました。皆さんの支援と協力に感謝します。今後も艦の伝統を引き継ぎ活躍します」とあいさつした後、乗員は艦に乗り組み、佐世保に別れを告げ、横須賀へ向け出港した。 |
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