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   2005年7月1日号
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インドネシア国緊隊に参加して
春日基地業務群管理隊輸送小隊 3空曹 三浦勝幸
 平成16年12月26日にスマトラ沖で地震が発生し、その後、インドネシア国際緊急援助空輸隊空輸支援班員として選抜され、平成17年2月1日にタイに到着しました。
 出国時の日本はとても寒く、雪が降りそうな天候でしたが、タイに到着したとたん30度を超える暑さで、寒暖の差を身をもって体験し、これからの任務が厳しいものになると感じる一瞬でした。
 毎日の作業はウタパオ海軍基地の格納庫の中で、日本から送られて来た食料品等(ビスケット、ミネラルウォーター、アルファー米、シート類等)を卸下、組み付け、搭載等を行い、貨物が多い時などは体力的に厳しいものを感じましたが、津波被害に遭われた人々に日本からの救援物資等を一刻も早く送るため全員が協力し合い、効率的な作業を行いました。ウタパオ海軍基地からバンダアチェ空港まで救援物資を輸送するC-130輸送機に乗る機会があり、その機内からインドネシア上空を見ると、津波が来たところは茶色に染まり、その他の所は緑色と区別がはっきりしていて、津波の恐ろしさをまざまざと痛感しました。
 バンダアチェ空港に到着すると、狭い駐機場では各国の輸送機であふれ、そのまわりには作業をしている人や、救援物資等が山積みで、各国の支援規模の大きさに驚くと同時に自分自身の任務の重要性を再認識しました。
 今回の派遣任務で学んだことは、生活環境や勤務環境が激変する中で、それらに対応できる精神面の強さや、何事にも臨機応変に対応出来なくてはならないという事及び仲間同士の輪を乱さない事を学びました。
 問題点としては、初めての海外勤務なのに、英語を勉強していなかったために、身振り手振りだけで現地の人と仕事をしなくてはならず、意思の疎通がうまく図れなかったことでした。また体力的にも消耗が激しく、体力の向上が必要だとつくづく感じました。
 最後に、微力ながら国緊隊の要員として、やりがいのある仕事に従事できた事は、今後の仕事に、この貴重な経験を活かし、向上心を持ち、何事にも対応出来る能力をつけるため、普段から努力し、頑張りたいと思います。
 また、被害でお亡くなりになった方々へのご冥福をお祈り致します。

体験搭乗で沖縄を研修
萩市自衛隊協力会  陽 信孝(みなみ・のぶたか)
 "なだ寒き沖縄の空
  仲間らとふれあう日々の
        あたたかき旅"
 人生は旅、旅は出合い、出合いは学びと言われているが、この度の沖縄研修は、多くの出合いとあたたかいふれあいをいただいた旅でした。
 共に旅をした仲間との出合い、ふれあいは言うまでもないが、自衛隊の皆さんとの出合い、皆さんが日夜、命をかけて取り組んでおられる一つの一つの仕事との出合い。沖縄の人々、文化との出合い。訪れる隊ごとのあたたかい出迎え、真摯な仕事への取組と情熱。すべてが機能的に、規律の中で遂行され、「平和」という大きな目標のもとに、膨大な組織の基に日々活動されていることへの感動と認識。驚きと学びの一つ一つを具体的に紹介出来ず抽象的な表現で紙面を飾らなくてはならないのが残念ですが、一人でも多くの国民に自衛隊の幅広い活動、社会への貢献の事実を認識し、理解してほしいという思いにかられると共に、合わせてただ傍観者の国民であってはならないことを痛感する4日間の旅でした。
 昼間は隊員の皆さん、設備等とのふれあいに驚きと感銘。夜は沖縄の文化、人々との出合いの中に、沖縄の皆さんの思いに触れ、泡盛と沖縄民謡との出合いの珍道中。
 平和と安全の確保に日々努力し、貢献されておられる多くの隊員の皆さんがあって今の日本で私たちが安心して日々が●ごせていることに敬意を表したい。
 私たち国民は、自衛隊の存在意義を人ごとではなく、自分たちの問題としてとらえ、理解し、協力の思いを強めていかなくてはならないことを実感させられた。
 ご多忙の中、私たちの為に貴重な時間を提供いただきました皆様のご親切、心からの対応に御礼申し上げますとともに、皆様のご健勝とご活躍を切にお祈り申し上げまして御礼に代えさせていただきます。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
自衛隊で培ったチャレンジ精神発揮
国分隼人衛生公社  久保 康博
久保氏は平成15年、12普連(国分)を3陸尉で定年退職。55歳
 平成16年、援護センターの皆様のご尽力により国分隼人衛生公社に就職し早1年が過ぎました。弊社は、国分・隼人地区の浄化槽清掃・保守点検、事業系一般ゴミ資源収集運搬業・公共下水道保守管理、各種リサイクル事業などを行っている会社です。
 私は、国分市広瀬にある国分・隼人地区下水道で、各施設の保守・点検に取り組んでいます。現在、7名のスタッフで水質管理、汚泥の脱水や場内の保守管理を実施し、また、中央管理室で微生物の管理、各ポンプ等の運転などを24時間交替制で勤務しています。相手が微生物であり、我々には何も言いませんが、毎日観察することにより、今何をしてほしいのか察知して、微生物の一番住みやすく活動しやすい環境を作ってやることが大切です。
 私は、自衛隊在任中の36年間、通信一筋の勤務であり、他の業種に就職することに大変不安を感じていましたが、会社の上司や仲間のスタッフの指導・協力により、この1年間頑張って参りました。また、我が社は自衛隊の援護活動に対して、理解が大変深く、リサイクル部門には、OBが多数採用されています。
 これからは、微生物の種類、性質、働きなどを把握し、環境に優しいきれいな水を地球に返すことを目標に、また、下水道関係の各種資格の取得に挑戦しつつ自衛隊で培ったチャレンジ精神を発揮して頑張りたいと思います。
 最後に、自衛隊の任務は、災害派遣は言うに及ばずPKO、国際緊急援助活動など大きく変化しています。健康に十分留意され任務に邁進されんことを心から願っています。

防衛ホーム 俳句コーナー
 この風を聞きたくて来し穂麦畑  小川 淑子
 滴りの暗さに生れ来たる風  井手かへい
 炎昼を忘れて亀を覗ける子  斉藤 利恵
 どの樹々も黙しゐるごと暑に対す  岩崎 清子
 通り雨鬼灯市の生き生きす  岡野アイコ
 昨日のこと思ひ出せずに端居かな  清水 文江
 西瓜提灯むかしは闇の深かりし  島田 基三
 ビル風を涼しきものと愛でゐたり  西 無左夫
 開け放ち風を遊ばせ夏座敷  山崎 明子
 手の足の踊りたがってをりにけり  鈴木 芳江
 淋しくて動くほかなき海月かな  中野たか江
 蛍火を風の攫ひに行きにけり  山田 れい
 草刈の無我夢中なる夫かな  鈴木和加里
 幾筋も青田に風の道ありし  宮本 立男
 扇風機あちこち見回す陋居(ろうきょ)かな  渡辺あきを
 幻のごと落ち梅雨の俄滝  岩崎 緑雨
 想ひ出を辿りたどりて小さき滝  清家 義輝
 火の山の裾にまたたき夜涼の灯  今村 淑子
 かづら橋梅雨の重さを乗せて揺れ  東原祐一郎
 チャルメラに豆腐売りゆく朝涼し  本吉のぼる
     選者吟
 小さき夢いつも育てて虹仰ぐ  保坂伸秋
     (「栃の芽」誌提供)
 「栃の芽」誌をご希望の方は<栃の芽会連絡先=仙台防衛施設局総務部・畠中草史氏?022・295・1281内線3100>へご連絡下さい。

大切なお父さん
山形県天童市立第4中学校1年  押切 望由紀
20普連本管中 押切2曹次女
 私のお父さんは、姉が3才、私が1才の時に離婚し、お父さん1人で姉と私を育てることになりました。現代で言えば『シングル・ファザー』です。
 私のお父さんは、18才から自衛隊に勤めています。お父さんは演習や当直などで帰れない時が何回もありました。それでもお父さんは、がんばってミルクや離乳食を作ってくれました。でも、演習も当直も仕事は仕事です。そんな時は、実家に行って預けたそうです。そして、このようなことが何回も何回も続けられました。そんななかで、お父さんは老人ホームのボランティアをすることになりました。そこで加藤さんという女の人と知り合いになりました。加藤さんはお父さんの事情を知っていて、「それだったら、そう言う時は私の家に預けていいですよ」と言ったそうです。お父さんはえんりょしながらも、姉と私を預けに行ったそうです。その時に、姉と私は泣いてしまいました。その理由は、知らない人の家に泊まるという不安からの涙からでした。お父さんは泣きやむのを待ってから仕事に行ったそうです。私はお父さんが仕事に行った後にも泣きました。加藤さんの家には大きな犬が2匹いて、それを見た私は、もう1回泣いたそうです。それでも何回も加藤さんの家に行くうちに、泣く回数がだんだん減っていったそうです。そうしていくうちに私は年中さんになっていました。ある日、私がペンを持って様々な所に落書きをしてしまいました。それをお父さんが発見し、ものすごい勢いで怒られました。その後、落書きが中々消せなくて、消せるところは消したんですが、今でも残っている落書きがあります。今、落書きを見てみると、「なんじゃこりゃ!」って感じです。
 私は小学生になりました。私のお父さんはやっぱり仕事が忙しく、学芸会や運動会などの学校行事に来られないことが結構ありました。特に私が印象に残っているのは5年生の学年行事でした。その時お父さんは演習に行っていて、学年行事と重なってしまいました。でも、お父さんは「10時ごろには行くから」と言っていました。けれども、お父さんは11時になっても来ませんでした。私は心配で友達のお母さんにケータイを借りて電話をしました。「早く来てよ、親子行事終わっちゃうよ」と言ったら、お父さんは「わかった、今そっちに向かってるから待ってろ」と言いました。私は「それなら早く来てよ、絶対だよ!」と言って電源を切りました。数分後、やっとお父さんが来ました。でも、来たころには、お昼ご飯の準備をしていて、メインの親子行事は終わっていました。でも、私は来てくれただけでとってもうれしかったです。
 私が6年生になって半年ぐらい経った時、『イラク派遣』という大きな問題が出てきました。私はその時「お父さんはイラクに行っちゃうのかなあ」と心配になりました。数日経ったころ、お父さんの口から思いがけないことを聞きました。それは私の思ったとおりイラクに行くか、ここに残って自衛隊の新聞を作るかという選択でした。お父さんは正直とても迷ったそうです。お父さんは思いきってイラクに行かず、ここに残って新聞を作る事にしました。私はこの決断にもちろん賛成でしたが、新聞を作る仕事はとても不規則で、土、日の休みがない時もあり、少しさびしくなりました。だけど、それはお父さんが決めたことです。私はしょうがないと思いました。私はお母さんが居たらどうなったかなと思うことがあります。なぜならもし、お母さんが居たらお父さんはイラクへ行ったかもしれません。これからも親子3人で暮らしたいと思います。
 (この文は、天童市中学年生作文コンクールで優秀賞を受賞したものです)

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