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   2005年3月15日号
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三宿駐司令杯
少年野球大会を支援
<衛生学校>
輝かしい伝統守り続ける
 第21回三宿駐屯地司令杯争奪少年野球大会が2月26日、穏やかな晴天に恵まれ、東京都目黒区の東山中学校と目黒第1中学校の両校校庭グラウンドで行われた。この大会は毎年、陸自衛生学校の隊員多数が支援協力して実施されているもので、今回、小学校4・5年生を主体にした強豪8チームが参加した。
 午前8時半、開会の辞に続いて、整列した参加全選手・役員を前に、中川克也陸将補(三宿駐屯地司令兼ねて衛生学校長)が挨拶に立ち、「日頃の練習成果を存分に発揮して、すばらしい試合をするよう」力強く激励した。優勝杯返還、選手宣誓、審判長説明などに続いて始球式が行われ、中川司令がピッチャーマウンドから得意の豪速球を投じると、見事ストライク!!、初戦試合の火蓋が切って落とされた。
 8チームがトーナメント方式で対戦した各試合とも、ナイスバッティングや好プレーが続出、父兄らの大きな声援を背に受けながら選手は広いグラウンドを駆け回り、手に汗握る熱戦を展開した。そして、決勝戦へは前評判どおり優勝候補2チームが進出。3回表に連打で猛攻撃をかけた目黒イーストが、自由ヶ丘ドジャースを6対0で破り、3年ぶりの優勝に輝いた。3位に池之上ウイングス、4位はCCペガサスだった。
 午後3時半すぎから、表彰式が東山中学校で行われ、中川司令が各チームの健闘を称えながら、優勝杯、賞状などを上位4チーム、優秀選手にそれぞれ贈呈した。最後に、中川司令と衛生学校幹部を囲んで各チームの選手、役員がそれぞれ記念撮影し、大会を終了した。
 表彰式後、各チームの役員、監督は、大会を支援協力してくれた衛生学校隊員に感謝しながら「チームプレーを大事に」「子供扱いしない」「目線を同じに」などの指導方針を掲げ、「優勝を目標に、これからも全員で努力していきたい」と語っていた。

 ※この大会は、昭和55年以来毎年、陸自衛生学校の隊員多数が支援協力して三宿駐屯地内営庭で行われてきた。しかし、昨年、中病など同駐屯地内の建物整備工事のため営庭が使用できなくなり、やむなく中止にせざるをえなくなった。この大会中止の報を聞きつけた目黒区教育委員長をはじめとする多くの関係者から「ぜひ、大会を継続して欲しい」との強い要望が駐屯地に寄せられたこともあって、昨年、今年と部外グラウンドを使用して大会を開催、引き続き、衛生学校隊員多数の支援協力のお蔭で大会の伝統が守られている。


自殺予防Q&A
自殺を予防するには?
孤立は赤信号
防衛医学研究センター 高橋祥友
〈第12回〉
 Q:自殺を予防するために最も重要なことは何だろうか?
 A:自殺してしまった人の大多数は、最後の行動に及ぶ前にこころの病にかかっていたという事実をこのコラムでも繰り返し指摘してきた。うつ病、アルコール依存症、統合失調症だけでも全体の三分の二を占める。
 ただし、今では、さまざまな有効な治療法がある。ところが、治療も受けられないままに、多くの人が自ら命を絶っているというのが現実である。したがって、自殺予防のためには、こころの病を早期に発見して、適切な治療を実施する必要がある。
 さて、それ以外の大きな問題は何だろうか。自殺に追い込まれる人のほぼ全員に共通する心理がある。それこそが「孤立」である。
 もともとの性格も関係しているし、また、最近になってかかったこころの病のために「孤立」状態に追い込まれていることもある。
 自分が抱えた問題には何の解決策もないし、相談する相手もいないと、当人は信じ込んでいる。唯一そこから逃げ出す道は自殺しかないと確信しているのだ。この段階まで至ると自殺は恐怖感よりも、甘い囁きとなって迫ってくる。
 「問題は自分で解決しなければならない」「弱音を吐けない」「誰かに相談しても、何の解決にもならない」としばしば考えられている。たしかに、話をしたからといってすぐに解決が見出せる訳ではないかもしれない。
 しかし、問題を言葉に出して表現し、誰かに真剣に耳を傾けてもらうことによって、少しだけでも冷静さを取り戻すことにつながる。思いがけない角度から問題を見つめなおすことができる場合もある。
 何かあったときに誰かに相談しようと思っても、すでにかなり追いつめられていることもある。深刻にならないうちに、そうなったら誰に相談するか考えてみてほしい。
 こころの問題だからといって、すぐに精神科に受診するのはたしかに抵抗感もあるだろう。職場の上司、同僚でもよい。そういった人には話しづらいというならば、家族、親戚、中学や高校時代の同級生でもよい。
 自殺にまで追いつめられてしまう根本の心理状態というのはまさに「孤立」なのだ。それを防ぐためにも、日頃から、周囲の人々との関係を大切にしたい。また、いつもとは言動の変化を認め、明らかに孤立傾向を示している人に対しては、周囲の人々もぜひ一言声をかけてほしい。(了)

<彰古館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ38〉
原爆投下と軍医学校
 昭和20年(1945)8月6日広島、9日長崎と、相次いで原爆が投下され、日本は初めての、そして唯一の原爆被爆国となりました。
 陸軍軍医学校では新型爆弾爆発の情報から当時ウラン爆弾と呼ばれていた原子爆弾の可能性が高いと判断し、学校高級副官を理化学研究所仁科研究室に派遣しました。当時、放射線研究では我が国唯一の研究機関です。ここで、仁科芳雄博士から原子爆弾のレクチャーを受け、現地に調査団と救護班を派遣します。調査団は逐次軍医学校、陸軍省に報告を入れます。
 救護班は、軍医学校で試作したペニシリンを携行し、火傷やそれに伴う敗血症、肺炎などなどの治療に当たります。貴重なペニシリンは有効性が認められていましたが、如何せん製造量が少なく、顕著な成果を残すことは出来ませんでした。
 数次に及ぶ調査と救護活動が一区切りつくとチームは軍医学校に帰校し、詳細な医学報告書が纏められ、厚生省に託されました。
 さて、数年前、彰古館の整備中に、クシャクシャに丸められた小冊子が数冊発見されました。戦後、疎開先の山形から軍医学校の跡地に集積された、参考館の所蔵品の梱包材として使われていたものです。幸いにも紙くずとして捨てられずに済んだ小冊子はB5サイズのわら半紙8頁にガリ版印刷されたものです。その内容は、放射能症の治療要領の指示書だと判明しましたが、肝心な「いつ誰が作成した」のかが不明のままでした。
 そこで、この冊子を閉じていた「こより紐」を解いたところ「臨時東京第一陸軍病院第十五外料病室」の文字が確認されました。当時、当直の軍医や看護人たちが閉じ紐として反古紙を捻ってこよりを作っていました。今で言うところのリサイクルです。空襲の激化によって軍医学校の人員器材の殆どは山形に疎開しており、軍医学校の敷地の管理をしていたのが隣接していた「東一」です。
 この「こより紐」によって指示書が書かれたのは軍医学校が山形から復員した終戦後の9月2日以降から、軍医学校が終戦処理を終えて廃校となる11月26日までと判明しました。
 この指示書には、被爆者からの聞き取りによる情報の整理、血液検査の要領、治療方針の決め方、経過の観察など詳細な指示が纏められています。終戦処理の一環とはいえ、陸軍の組織は既に機能を失いつつあった時期で、敗戦後の自分達の身の振り方も決まっていなかったのです。最後まで軍務を全うした軍医達には本当に頭が下がります。
 昨年、広島平和記念資料館から彰古館に調査に来られ、この指示書が目に留まりました。同館の調査によれば、この内容は当時の地方新聞にも掲載されていましたが、原本は既に存在しないと考えられていました。1本の「こより紐」から来歴が判明したこの指示書は同館の依頼で「似島が伝える原爆被害」に特別展示され、59年ぶりに大勢の目に触れました。
 彰古館の所蔵品は例え「こより紐」一本でも決して捨てることは出来ないのです。

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