台湾の元総統李登輝が今年の7月30日死去した。97歳だった。李登輝は台湾が日本の統治下にあった1923年台北州に生まれ、旧制台北高校卒業後、京都帝国大学に進学し農業経済学を学んだ。1944年学徒出陣により出征し、陸軍少尉として終戦を迎えた。戦後台湾にもどり、台湾大学を卒業。その後二度にわたってアメリカに留学し、1968年コーネル大学で農業経済学の博士号を得て帰国。台湾大学教授兼中国農業復興聯合委員会(農復会)技師に就任した。
1971年蒋経国に勧められて、国民党に入党。蒋経国が行政院長に就任すると農業専門の政務委員として入閣した。1984年には総統に就任していた蒋経国より、副総統に指名された。1988年蒋経国総統の死去に伴って、1990年から2000年まで、2期にわたり、台湾出身者として初めての総統となった。
李登輝は台湾の民主化を積極的に進めた。その民主化は静かな革命だった。1996年、総統直接選挙を実施し、台湾史上初めて台湾人が自ら選ぶ総統となった。中国は、李登輝の主導した一連の政治改革や直接選挙の実施が台湾独立につながると反発し、台湾周辺海域にミサイルを発射して威嚇したが、李登輝はこうした中国の圧力に毅然と対応した。
李登輝は総統退任後、台湾独立の姿勢を強めた。「台湾は主権国家」だと発言し、台中関係を「特殊な国と国との関係」とする二国論を展開した。2012年以降民進党の蔡英文(現総統)を支持した。蔡英文は李登輝の死去に際し、「台湾の民主化における貢献はかけがえのないものだった」と述べた。
「22歳まで僕は日本人だった」、「僕は戦後の日本人が失った純粋な日本精神を、今も持ち続けている。だから政治の苦難も乗り越えられた」と言う李登輝は、戦前の日本の良き教養教育が生んだ最高の人格であったとの思いがする。
李登輝は『武士道解題』という著書を残しているが、これを読むと、李登輝の教養の広さと深さに驚嘆する。李登輝は旧制中学及び高校時代、西田幾多郎(『善の研究』)、阿部次郎(『三太郎の日記』)、カーライル(『衣装哲学』)、カント(『純粋理性批判』、『実践理性批判』)、ゲーテ(『ファウスト』)、鈴木大拙(『禅と日本文化』、『教行心証』の英訳)、倉田百三(『出家とその弟子』)、新渡戸稲造(『武士道』)などを熟読して、人格を形成した。
李登輝は言う、台湾の総統時代の12年間、いかなる思いで「公」のために奉じてきたか、そして何の未練もなく後進に道を譲ったのか、これらの答えはすべてかつての「日本の教育」に土台を置いた「大和魂」すなわち「武士道精神」にこそあった、と。
李登輝のような親日的な台湾要人の日本訪問を、日本政府は、中国の圧力に屈してしばしば拒んだ情けない歴史をもつ。1994年、広島でのアジア大会に招待された李登輝が出席を表明すると、中国から日本に猛烈な圧力がかかり、招待は取り消された。また、2001年李登輝が心臓病の治療のために来日を希望したが、当初日本政府は中国に忖度してビザ発給を認めなかった。これには反対論があり、最終的には人道的措置としてビザが発給されたが、こうした日本政府の対応は、三流国と言わざるを得ない。
李登輝は戦後の日本が自信を失い、卑屈になったと憂慮していた。李登輝は、「日本には武士道という世界一すばらしい精神的支柱がある」、「日本人よ武士道を忘れるな」と繰り返し述べている。
(令和2年9月1日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |