外交評論家加瀬英明は、国民の国家意識の欠落こそがわが国の危機であると言う。そして、国家意識が希薄になっているのは、日本にふさわしくない憲法を戴いてきたためで、国民に日本が国家であるという覚悟がないから、国民が憲法に真剣な関心をいだくことがない、と言う。
また、中国から日本に帰化した石平は言う。日本には法務局や国籍管理の法律はあっても、肝心の「国家という意識」が完全に欠けている。日本という国家の重み、国家としての尊厳は一体どこにあるのか。世界中のどこの国にとっても一番大切なものだが、日本にだけは欠けている。しかし、このままでよいとは思わない。
また、元衆議院議員の北神圭朗は、私たちは国家としての自分を見失っています、いや、「国家」という言葉さえ、違和感をもたれていますと言う。北神氏は、子供の頃からアメリカで生活し、旧大蔵省に入り、国会議員として政治活動をしてきた人であるが、米国以外の様々な国の人たちとの交流を振り返っても、やはり、わが国にはあまりにも「国家の物語」が欠落していると言わざるを得ません、と言っている。
私が新たに言うまでもなく、日本が国をあげて戦った大東亜戦争での徹底的な敗北が、日本人に国家否定の感情をもたらした。戦後教育界に根強く存在した国旗(日の丸)と国歌(君が代)を否定する勢力は、この感情を象徴している。GHQは、軍国主義と「極端な国家主義」を鼓吹したという理由で、修身、歴史、地理の3教科を学校教育で禁じた。そして、東京裁判によって日本人は軍の指導者とともに日本の国家が裁かれたと感じた。
国家とともに悲惨な戦争を経験した日本人は、国家意識即戦争という呪縛に陥った。本格的な国家論を避けるようになり、国家意識などもたずに生きる道を選択して、それが現在まで続いている。しかし、私も冒頭の識者が言うように、これでいいとは思わない。国家意識は日本の国の独立と生存の根本にかかわることだからである。
かつて、社会の生産力の発展とともに国家は消滅するという社会科学の理論があった。また、経済のグロバリゼーションの進展とともに国家の役割は減るとの見方があった。しかし、昨今、グローバリゼーションはむしろ後退し、主権国家のナショナリズムがより強く出る世界となっている。
今年コロナウィルスの拡散が世界にパンデミックを起こしているが、この対策に責任をもったのは、国連WHOでもなく、EUでもなく、各国の政府、すなわち主権国家である。どの人間集団でも生存が脅かされれば、それを救うのはその集団の属する主権国家の政府であるという当たり前のことが起きている。
今後国家の役割と重要性が減ることはない。人類は国家を形成し、国家とともに、国家の中で生きてきた。国が乱れれば国民の生活は脅かされる。国が他国に支配されれば国民は忍従を強いられる。国民の権利、生命、財産も蹂躙され、国土は荒廃する。国が滅べば国民の歴史、文化、伝統も失われる。国民は国家と運命を共にするのである。
戦後75年、われわれ日本人の国家意識の欠落が今なお続いているのは異常と言わなければならない。現在の日本をとりまく国際環境は、戦後間もない頃から大きく変化し、むしろ日本の国家の存立が深刻に脅かされた江戸末期の頃に近くなっている。
(令和2年8月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |