渡辺和子さん(1927-2016)は、二・二六事件(1936)で暗殺された陸軍教育総監渡辺錠太郎の次女として生まれ、戦後、聖心女子大学卒業後、29歳のときノートルダム修道女会に入会。アメリカに派遣され、ボストンカレッジ大学院で教育学博士号を取得して帰国。1963年、36歳の若さで岡山県にあるノートルダム清心女子大学の学長に就任。長年にわたって教壇に立ち、学生を指導した。1990年学長を退任後も、2016年89歳で帰天するまで、理事長として同学園の教育に献身した。
渡辺さんは、230万部を超えるベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』を始めとして、『面倒だからしよう』、『どんな時でも人は笑顔になれる』、『幸せのありか』などの珠玉のエッセイを残している。
エッセイは、「時間の使い方は、そのままいのちの使い方なのです」、「与えられる物事一つひとつを、試練さえも、ありがたく両手でいただく」、「神は力に余る試練を与えない」、「不機嫌は環境破壊。笑顔でいると相手も自分も心豊かになり、不思議に物事が解決することがある」、「つらい病気をして、今まで気づかなかった他人の優しさと自分の傲慢さに気づいた」、「老いて人はより柔和で謙虚になることができる」など、カトリックのシスター(修道女)として信仰と教育に生きた渡辺さんの人格から発せられたすばらしい言葉に満ちている。
そして渡辺さんが9歳のとき二・二六事件で殺された父錠太郎氏について、「父は9年間に一生分の愛を注いでくれた」と記している。1936年2月26日早朝、陸軍青年将校と兵士30数名が渡辺邸を襲撃したとき、父はそばで寝ていた和子さんを壁に立てかけてあった座卓の陰にそっと隠してくれた。和子さんはそこから父が機関銃で撃たれ、惨殺されるのを見た。血の海の中で死んだ父の情景は自分の目と耳に焼き付いているという。
50歳の頃、二・二六事件で殺された側の唯一の生き証人としてどうしてもテレビに出て欲しいと頼まれ、テレビ局に行ったところ、自分に何の断りもなく、父を殺した側の兵卒が出演するため呼ばれていた。和子さんは驚き、相手側との会話もなく、テレビ局が気を利かせて出したコーヒーを「これ幸い」と思って飲もうとしたが、一滴も飲めなかった。非常に不思議な体験で、そのとき自分は今まで父を殺した人たちを恨んでいないと言ってきたが、本当は心から許していないのかもしれないと気づいた。言葉で言えても体がついていかないことがあり、「汝の敵を愛する」ことの難しさを知ったと記している。
二・二六事件で殺害された斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、及び瀕死の重傷を負いながら奇跡的に快復した鈴木貫太郎侍従長は、皆当時の日本の第一級の人たちである。生きのびた鈴木は1945年首相となり、昭和天皇の聖断によって戦争を終結させる。
渡辺錠太郎は読書をよくする学者武人であったが、当時の青年将校の政治化する傾向と下克上の風潮を否定し、軍人は本来職務に忠実たるべしとの強い信念をもっていた。そして軍隊は強くなければならないが、戦争だけはしない覚悟が必要であると考えていた。陸軍皇道派の青年将校らはこのような良識派の渡辺を邪魔とし、葬ったのである。惜しんで余りある死であり、愚かとしか言いようのないテロであった。
(令和2年7月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |