中曽根康弘元首相が11月29日、亡くなった。101歳だった。国に貢献した非常に立派な政治家だったと、国民の一人として深い敬意を表明したい。
中曽根康弘は戦後まもない1947年、28歳の若さで群馬3区から衆院選に立候補して初当選。以来連続20回の当選を重ね、政治家の道を歩んだ。1959年岸内閣で科学技術庁長官に初入閣して以来、運輸相、防衛庁長官、通商産業相、行政管理庁長官などを歴任。1982年自民党総裁となり、内閣総理大臣を3期5年間つとめ、1987年退任した。
首相在任中の実績としては、行政改革を推進し、国鉄、日本専売公社、日本電電公社の三公社の民営化を行った。また、日米安全保障体制の強化につとめ、レーガン大統領と親密な信頼関係を構築して(「ロン・ヤス」関係)、良好な日米関係を築いた。防衛力強化政策の仕上げとして、防衛費の予算計上額をGDPの1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を撤廃し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り替えた。
中曽根内閣は「戦後政治の総決算」を掲げた。その眼目は戦後吉田茂首相の敷いた安全保障政策の是正にあった。彼は言う、「吉田首相はマッカーサーを相手に戦後日本を立て直した偉大な功労者であるが、自国の軍事、防衛、安全保障を軽視して、米軍に依存した。当時はそれでやむを得なかったかもしれないが、いずれ国は自ら守らなければならないと、国民を訓すべきだった」と。
中曽根康弘は憲法改正を悲願とした。曰く、「現憲法はマッカーサーからのお下げ渡しで、日本人が自らつくったものではない。千数百年続いてきた日本の歴史、伝統、社会規範、発展への共通の理想、世界人類の未来を見据えた決意を入れるというのが憲法というものである。それは自ら国会でつくるしかない」。
中曽根は新保守自由主義を唱えた。それは歴史と伝統を共有する共同体(国家、民族)基盤の上に、歴史、伝統のよいところを守り、科学技術を駆使して創造力をもって時代を切り開く新保守主義と、小さな政府、規制排撃、個人・人権の尊重、市場の重視、地方分権を指向する自由主義を実現運用しようとするものである。
中曽根の政治思想は、歴史、哲学、思想、宗教に関する深い教養に裏打ちされていた。そして日本の歴史、伝統、宗教を深く理解し、日本の文化を尊重した。戦後の社会問題やその他の様々な問題の根本に、社会に生きる理念や哲学と、国や郷里の伝統と歴史を失わしめた戦後教育の誤りがあると考えていた。
中曽根康弘は最期まで政治を考え続けた人だった。勉強家であり、読書家だった。そして常に国家への思いがあった。彼は戦後教育に最も欠落しているのは、国家論であるという。占領政策と猖獗をきわめたマルキシズムの影響によって国家論がタブー視され、国家論が欠落しているゆえ非常に空疎な社会論や平和論が生まれていると言う。
「賢者は歴史に学ぶ」、「政治家の資質の第一は歴史観である」と語る中曽根康弘は、風見鶏やパフォーマンスの人ではなく、背骨のまっすぐ通った重厚な思想家だった。
(令和元年12月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |