楠木正成(1294-1336)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。後醍醐天皇を奉じて幕府軍と戦い、後醍醐による建武の新政(建武中興)に大きく貢献した。
正成が千早城に立てこもって鎌倉幕府の大軍を相手に一歩も引かずに奮戦している間、各地に討幕の機運が広がり、足利尊氏が京にある幕府の六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻め滅ぼした。建武中興の失政をみとった足利尊氏はその後、後醍醐に反旗をひるがえした。正成は義貞や北畠顕家らと合流し、京に迫った尊氏軍と戦った。尊氏はいったん九州に逃れ、九州を制覇して勢いを盛り返し、十万を越える大軍をもって上京した。義貞とともに尊氏を迎え撃つよう命じられた正成は、天皇と朝廷は比叡山に避難し、京に入った尊氏軍を兵糧攻めにして討ち取る戦略を進言したが、朝議で容れるところとならず、死を覚悟して湊川(兵庫県)で尊氏の大軍と戦い、最後は自害した。
楠木正成は、軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦をいくさに導入した革新的な軍事思想家で、日本史上最高の軍事の天才との評価をうけている。『太平記』で中心的人物の一人として描かれ、頼山陽も『日本外史』で正成の知略、勇敢、皇室への忠誠を称賛している。頼山陽は言う。正成は、義貞では尊氏に勝てないことも、当時の朝廷が国を支配できる器ではないことも見抜いていた。すべてを承知しながら、おのれは命を捨て、子孫には最後まで朝廷を守ることを託したと。こうした正成は戦前忠臣の代表として国民に喧伝された。
私は楠木正成についてこのようなイメージしかもっていなかったが、最近、正成の遺した以下の家訓を読んで、正成が人間として真に偉い人だったと思うようになった。家訓の序にある「非理法権天」とは、非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たずという意味で、正成が旗印としたものである。
非理法権天
一、極楽を願わんより地獄をつくるな。一、誉を求めんより恥をいとえ。一、立身を思わんより御恩を忘るるな。一、上に諂い下を卑しむな。一、足る事を知って及ばぬ事を思うな。一、忠を安んじて死を怖るる事なかれ。一、手柄せんより気たがうな。一、身のために身を損んずな。一、人我の心深うして、人に勝らん事を思うな。一、ただ今日無事ならんことを思え。一、万物一体の理を守らざる故万病生ず。一、金銭をためるよりは借銭するな。一、人は名利につかわれて一生苦しむ。一、礼厚くして人の非をとがむるな。一、おのれが分をよく知れ。一、身をはたらけば食あまし。一、薬を好めば困多し。一、珍敷(めずらしき)ことに実少なし。一、酒は飲むとも飲まるるな。一、慈悲するともかわりをとるな。一、人は空言世は無常。一、一得あれば一失あり。一、物毎に肝要を知れ。一、着類は寒くないほど。一、食物は腹一ぱい。一、居所は風雨を防がんため。一、物言は聞こえる様に言え。一、物書は読めるように書け。一、ものかたりより塩梅(あんばい)。一、矢石(やだま)はあたるがよし。一、刀は切るるが重宝。一、学文は理を知るため。一、懈怠の者は永く貧なり。一、僧は菩提をもっぱらにして、世事を次にすべし。一、俗は家職を専一にして、後世を次にすべし。一、生ある物は必ず滅す。一、唯一心の要を恐れよ。一、善にも着(じゃく)すれば悪敷(あしき)也。以上(一部省略)。
(令和元年9日1日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |