鎌倉武士北条重時(1198-1261)の遺した家訓から、この時代、武家において女性が尊重されていたことがうかがえる。北条重時は鎌倉幕府3代執権北条泰時の弟で、京都にある六波羅探題の北方(長官)を務めるなど、兄を補佐して幕府の要職を歴任した。この重時が「極楽寺殿御消息」という家訓を遺している。
この家訓で重時は「妻は一人を定めるべきである。一夫多妻は罪深いことである」と言う(要点のみを現代語訳)。一夫一婦は現代では当たり前であるが、当時の東アジアにおいてはそうではない。貧しい平民(匹夫匹婦)は一夫一婦であったが、上流階級は一夫多妻が当たり前であった。日本でも公家は一夫多妻であった。しかし重時は家訓として一夫多妻を禁じている。
また家訓に言う。「女性は成仏し難いなどというが、そんなことはない。法華経に女性が成仏した例はたくさんある。特に女性はこころ深いので、一心に念仏すれば極楽往生することは間違いない」。重時は、女性はこころ深い(思慮深い)と言っている。
また、言う。「妻子の言うことはよくよく聞くべきである。道理に合わない場合は、女わらべのならいと思い、道理を言う場合は、以後このように何事も聞かせよ、と励ますのがよい。女わらべといやしんではならない。天照大神も女体である」。
こうした家訓から北条重時の、現代の日本の男をはるかに上回るフェミニストぶりを感じるが、こうした精神はひとり重時のものだけではなく、鎌倉武士に共通していた。源頼朝とともに鎌倉幕府をつくりあげた妻・北条政子は、頼朝が他に女性をもつことを許さなかった。頼朝は武家の棟梁とはいえ貴種であり、一夫多妻に何の抵抗ももたなかった。しかし東国の武家で育った政子は、武家たるものは一夫一婦たるべしという、ゆるぎない規範意識をもっていた。
鎌倉時代、所領の相続に関し、女性は法的に男性と同等の権利が与えられていた。当時の法である関東御成敗式目(貞永式目)は、女子の相続権について次のように定めている。「男女は異なるといえども、父母の恩は同じである。女子は所領を持参して他家に嫁ぐことがあるが、男子と同様に女子にも所領の相続を認める。そして親は生きている間、相続者が息子であろうと娘であろうと、譲った所領に対して『悔いかえし』する権利をもつ」。「悔いかえし」とは、譲った所領を思い直して取り上げることである。
また、妻が夫から所領を相続する場合もある。夫が譲状を妻に渡したあと、離婚した場合、夫は「悔いかえし」ができるか。この場合貞永式目は、妻の方に重要な過失等があって離婚になった場合は別だが、そうでない場合、夫による「悔いかえし」はできないと定めている。そしてこうした妻の権利は妾にも認められていた。
鎌倉時代、所領の相続に関し男女同等の権利を保証した貞永式目は、古代の律令や現在の日本国憲法などと異なり、外国由来ではなく、当時の日本の武家社会の慣習、規範、生き方から生まれた純粋な日本人の法である。
女性の地位について考えるとき、鎌倉時代という中世において、日本は世界的に女性の地位の高い社会だったとの思いをもつ。
(令和元年8月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |