二宮尊徳は「経済なき道徳はたわごとであり、道徳なき経済は犯罪である」と言った。また渋沢栄一は「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は永続することができぬ」と、『論語と算盤』で説いた。
二宮尊徳(1787-1856)は江戸時代後期の農政家。荒廃する農村の復興事業に生涯を奉げた。尊徳が手がけて再建された関東東北の農村は600余村に上る。渋沢栄一(1840-1931)は明治時代を代表する実業家。第一銀行、王子製紙、大阪紡績をはじめとする企業の設立および経営に深く関与し、その数は470社に及ぶ。日本資本主義の父と称される。
日本のこうした大実業家が、経済と道徳は一体である、一体でなければならない、と説いている。
このような日本の大実業家の思想を、現代の経済学者はどう評価するのだろうか。あまりにも当たり前で、学的研究の対象にならないとされているのだろうか。尊徳については、さらに報徳思想や推譲の思想がある。大多数の日本人が共感するこうした経済道徳思想こそ、経済学や倫理学で深く研究すべきだと信じる。
二宮尊徳と渋沢栄一は生きていた時代も、また行った事業も異なるが、両者には大きな共通点がある。まず二人とも実業に生きた人であり、実践の人だったことである。尊徳は学者と坊主が最も嫌いだと言っていた。これは学者と坊主が実践の伴わない教えを説くのを軽蔑した言葉である。道徳と経済に関する二人の主張は徹底した実践知だった。
次に二人ともひたすら社会に尽くした実業家だったことである。尊徳は篤農家であり農村指導者であるが、同時にスケールの大きい実業家、商人、政治家の面をもっていた。彼が農村復興でなく、自分の財産形成のために事業を行っていたなら、莫大な富をもつ資産家、あるいは何万町歩の大地主になっていただろうと言われる。しかし彼はそうしなかった。渋沢栄一も同様である。渋沢は「わしがもし一身一家の富むことばかり考えたら、三井や岩崎にもまけなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」と子供たちに語ったと伝えられている。
そして私が両者の伝記を読んで最も強く感じる点は、二人とも、非常に進取の気性に富み、卓越した知力をもった合理主義者だということである。これは、尊徳については一般にイメージされている人間像とは違うかもしれない。尊徳の農村復興事業は、必ず農民と武士の取り分である分度を明確に決めて実施したが、分度の決定にあたって、過去数十年にわたる農業生産の実績を数字で示し、適確な分度決定に導いた。また、尊徳は商人的な鋭い金銭感覚をもち、米経済から貨幣経済に移行する世の動きを敏感にとらえていた。
渋沢栄一も並外れた先見性と合理性の持主だった。彼は幕末の動乱期に青年時代を過ごし、外国(フランス)にも行き、移り変わりの激しい明治時代に壮年期を過ごしたが、新しい知識を実に偏見なく受け入れ、自分の考えを柔軟に変えていった。頑固な信念に固まるタイプからほど遠い合理的なプラグマティストだった。
尊徳晩年の幕末期の日本と、渋沢最晩年の昭和初期の日本は、地方の疲弊、行政の硬直化、閉塞感など、現代の日本と共通している。偉人二宮尊徳と渋沢栄一の思想と行動から、時代を切り開く叡智と実践力を学びたい。
(令和元年6月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |