航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」(平成30年6月)に、日本学生航空連盟専務理事の吉田正克さんが書いています。
「パラオから南下して赤道を越えたポルトガル領チモール島への航程2000kmの航空路開設が外交交渉の末決定し、2週間に1往復の定期航空が行われることになり、日タイ定期航空に次いで我が国では2番目の国際路線となりました」
吉田さんのこの記述に触発され、国会図書館で見つけたのが大日本航空社史刊行会の「航空輸送の歩み 昭和20年迄」(昭和50年7月財団法人 日本航空協会発行)です。
「チモール島は、例えその面積は狭小な島ではあったが西すれば直ちに蘭印のジャワ、スマトラ、セレベス、ボルネオ等の資源豊かな宝庫に連なり、南すればオーストラリア大陸を指呼の間に望み、東すれば未開の大地ニューギニアに近く、その位置するところはまことに扇の要にふさわしい戦、政両略上よりしてもきわめて重要視される地点であった。従ってもしこの新空路が実現を見れば、われに対するA、B、C、D包囲の鉄環はこの一点で切断されることとなり、その結果は彼ら陣営に一矢を報ゆる政治的効果とともにまた心理的に与える影響も決して少なくないと判断された」
第1回試験飛行は1940年(昭和15年)10月川西大艇(九七式輸送飛行艇 日本人の設計による最初の世界最高水準の大型四発飛行艇)を使用して実施。現地で出迎えた大日本航空の浅香良一さんは興奮気味に書いています。「十月二十二日青木操縦士を機長とする綾波号は松本海洋部長同乗のもと、わが国の民間機として初めて赤道を越えて、空路二五00キロを翔破、南緯の空にその姿を現した。ディリ住民のほとんどが見守る中を港内に進入した。綾波号より降り立った部長と交わした握手の感激は今も忘れない。同夜は総督以下のポルトガルの要人全部を招いて、クラブのホールで盛大なパーティーを開いて成功を祝った」
その後数回の試験飛行と慣熟飛行が成功裡に行われ、1941年(昭和16年)10月には「日本国ポルトガル国航空協定」が署名。これによりパラオ・ディリ間の定期航空は2週間に1往復のダイヤで運航されることになりました。
しかし、数々の意義を秘めて開設されたこの南への新空路は、1941年11月29日にディリを出発して日本へ向かった定期便が最後となりました。次の便は、12月8日の翌日9日にパラオから到着の予定だったとのことですが。
ここで、東ティモールに駐在していた民間邦人約30名が、12月8日以降完全に孤立状態に陥ったことにも触れたいと思います。
大日本航空の首席駐在員であった川淵龍彦氏さんは手記を残しています。「戦争が勃発してから約十日後の十二月十七日に、豪蘭連合軍約二千名が、中立国侵犯の上陸を敢行し、われわれ日本人は、それぞれ社宅から拘引されて、収容所に監禁された…われわれの体力は日毎に衰え、マラリアとアミーバ赤痢に悩まされて、監禁生活二か月を過ぎる頃には、全員が全く生と死の間を彷徨していたと言っても過言ではなかった…二月二十日の夜、激しいスコールと雷の中で突如として、物凄い大砲の音が耳をつんざくように、われわれの収容所の付近に炸裂し始めた」
このときの状況等について同じく駐在員だった橋本治忠さんは、「日本海軍の逆上陸が始まった。艦砲射撃の目標から抑留所がはずされている確証はない。砲弾の飛来が家を丸ごと震わせていた。死と生の背中合わせ。これが捨て石なのだと思った。翌朝、砲撃がやんだ。豪軍のいない死の街。抑留所の金網が破られた。手に手にハンカチ製日の丸(密かに赤インクを入手、作製して置いた)をかざして海岸線に向う。夜明けの冷気の中で、西海岸に上陸した海軍部隊の先遣隊に常盤氏(日航、軍通訳)がいた。涙と泥にまみれた握手と抱擁があった。横浜=チモール島ディリ線は、もう飛ばない」
あれから77年。日本も東ティモールも、筆舌に尽くし難い辛く悲しい凄まじい経験を重ね、かけがえのない平和を謳歌する今があります。いつの日か、東ティモールに向けて飛ぶ日本の民航1番機。絶対搭乗したいと思います。
北原 巖男
(きたはらいわお)
元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現(一社)日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事 |