今年は戦後73年。6月15日号本紙当欄でも触れた6月23日に続き、8月6日、8月9日そして8月15日がやってきます。いずれも私たちが忘れてはならない日です。
こうした中、全ての自衛隊員の皆さんはもちろん、今や私たち日本人の82%以上は戦後生まれです。戦争の惨禍を体験した人は、もう10人に2人もいません。
私たちは、さまざまな本や映画、資料館・記念館での展示、戦跡訪問そして戦争体験者や被爆者である語り部の皆さんの話しを聞くことなどを通じて、その悲惨な実態の一端に触れて来ています。
しかし、特に語り部の皆さんは著しく高齢化され、人数も減少し、一般に体力そして気力もこれまで通りには行かなくなって来ています。私たちは、残り少ない語り部の皆さんの切実な思い、貴重な時間をそのまま看過してはなりません。
話しを聞いた一人から、「当事者にとっては、生涯決して忘れ得ない体験でしょう。でも自分にとっては、考古学の発掘の話しを聞いているような感じ」との言葉を聞いたことがあります。
しかし、そんな若者にとっても、平和がいかに尊いものであるか、あのような戦争を決して起してはならない責任が自分たちにあることを考えて行く機会になったことは間違いないと思います。
私の長野県松本市立丸の内中学校時代の恩師、中野善夫先生も語り部の一人。旧東京高等商船学校(現 東京海洋大学)卒業。1944年9月、大型輸送船の機関士として邦人と物資を乗せ日本に向け夜間南シナ海を航行中、敵潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。機関室から辛うじて脱出。多数の邦人、乗員が犠牲に。「沈みゆく船を逃れて飛び込みし底知れぬ海に一夜生きたり」(中野善夫著「歌集 この道」より)。またその後も、1945年4月、乗艦していた小型海軍輸送艦が岩手県沖で座礁・沈没。半数以上の乗員が死亡。そして8月9日、長崎の爆心地から3・5キロ地点で被爆。「長崎の街は火の海のがれきて眠れぬ夜を過ごしぬ」(前掲)。戦後は、満州等からの引揚者の皆さんの輸送に取り組まれました。
中野善夫先生は、当時中学生の私たちに戦争の残虐さを語り、絶対に戦争はしてはならないと何度となく諭されていました。
そして95歳となった現在も、戦争を知らない世代、特に未来を担う若い人たちに、語り部として平和の大切さを訴え続けています。 曰く「戦争を体験した私の務めだと思います」。
ところで広島平和記念資料館。原爆の威力・甚大な被害の実相に触れる必見の場所です。私にはこんな思い出があります。広島に住んでいたとき、知人から、アメリカ留学中の弟がアメリカの友人と広島に行くとの連絡がありました。「弟が、友人と議論になった。エキサイトした友人は弟に"もう一度日本に原爆を落とすぞ"と発言した由。弟は"冗談でもそんなことを言っては絶対にダメだ。広島平和記念資料館を見たら分かる。一緒に日本へ行こう"」。弟と友人が揃って広島平和記念資料館を訪問したのは、それから間もなくのことでした。そんな弟とアメリカの友人を見ていて、お互い真に良き友人を持ったなぁ、二人とも頑張れ、と感じたことを思い出します。
平成の時代、最後の8月です。
北原巌男(きたはらいわお)
中央大学。70歳。長野県伊那市高遠町出身。元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現(一社)日本東ティモール協会会長 |