防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
スペーサー
自衛隊ニュース   2008年7月15日号
-
1面 2面 4面 5面 6面 7面 8面 9面 10面 12面

しめやかに戦没者慰霊祭
《下関基地隊》
御霊の冥福祈る
隊司令、副長、先任伍長が焼香
-

 下関基地隊(司令・原田哲郎1佐)では5月18日、吉見地区遺族会(会長・福島敏行氏=会員数150人)主催の吉見地区戦没者慰霊祭に参列した。
 これは昭和21年4月、下関市吉見地区の有志が発起して戊辰戦争、西南の役、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦で亡くなられた軍人・軍属の御霊安らかにとの願いから遺家族援護会が組織され毎年執行されているもので、戦没者を祭る招魂場は吉見を一望出来る近隣公園の頂にあり、197柱の霊御と「ふる里の山河美しきこの丘に御霊鎮めて安かれと祈る」との歌碑が建立されている。
 戦没者慰霊祭は来賓に藤村紀久正・下関連合遺族会副会長(会長代理)、守永賢治・下関市役所総務部次長(市長代理)、原田哲郎・下関基地隊司令、永尾遜・吉見地区自治連合会会長ら23人と遺族66人が参列してしめやかに営まれた。
 式場の下関市役所吉見支所内公民館講堂正面には祭壇と殉國英霊位が掲げられ、午前11時、日本尺八連盟吉見支部会員5人による鎮魂曲「青葉」演奏の中、遺族代表2名による献花がおこなわれた。続いて福島会長が「国家の干城として勲功を立て、国に殉じられた郷土出身の御霊の慰霊祭を執り行うにあたり、謹んで感謝を捧げ追悼の辞を申し上げます。光陰まさに矢の如しとか、あの悪夢のような悲惨な終戦から早くも63年の歳月が過ぎ去りました。一家の支柱を失った遺族にとりましては大変長い苦難の道程でありました。我が国におきましても幾多の困難はありましたが、ひたすら再建と発展に励み、平和と繁栄を築き上げ、今では民主的国家となり発展してまいりました。私たちが受けておりますこの平和と繁栄は、戦いで尊い命を国家に捧げられた英霊の皆様の礎によって築かれたものであり、私たちは英霊の御意思に報いるためにも、恒久平和を祈り一層の努力をしなければならないと堅く誓うものであります」と追悼の言葉を述べた。来賓として下関市長代理の守永賢治・下関市役所総務部次長が「慰霊祭にあたり戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝え、真に平和な世界の実現のため一層努力してまいりますとともに謹んで哀悼の意を捧げます」との江島潔・下関市長の追悼の辞を代読した。また、植田秀明・下関連合遺族会会長からも追悼の辞が述べられた。その後、読経の中、来賓として出席した基地隊司令、副長、先任伍長が焼香を行った。
清掃支援に感謝
 最後に福島会長から慰霊祭参列に対する謝辞に続いて、長年にわたり下関基地隊が実施している招魂場周辺の環境整備に対する感謝の言葉が述べられた。これは慰霊祭に先立ち毎年実施しているもので、今年は5月21日、基地隊先任伍長以下11名の隊員が、招魂場周辺の清掃作業を実施した。薫風の中での作業であったが、隊員たちは額に汗しながらも、爽やかな気持ちで、樹木の剪定やあたり一面を覆っていた雑草や枯葉を取り除いた。全員で参拝し、御霊の安らかな冥福を祈って帰路についた。


歴史探訪
恩海義(山へんに喬)
めぐみのうみ、ぎはたかし
-
 上対馬の比田勝港から5km程北上した対馬の最北端に日露友好の丘があり、ここにある「日本海海戦記念碑」を紹介します。
 今を逆上ること103年前(明治37年)日露戦争が始まり、翌年ロシアは戦況の劣勢を挽回するため、バルチック艦隊を極東(対馬海峡)に派遣しました。これに対して、連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥が率いる日本艦隊は、5月27日から2日間にわたってこれを迎え撃ち圧勝しました。この海戦において撃沈されたロシア・バルチック艦隊のウラジミル号、モノマフ号からボートで脱出した水兵たちは殿崎浜に漂着し、地元農婦に手厚く看護されたそうです。
 そして、海戦から6年後、対馬農民の人間愛に感動した東郷元帥の揮毫により記念碑「恩海義(山へんに喬)」(めぐみのうみ、ぎはたかし)が建立されました。
 この記念碑は、東に玄界灘、西に朝鮮海峡を臨む風光明媚な丘に位置し、韓国展望台と豊砲台跡地、そしてこの日本海海戦記念碑が、三大名所として訪れる観光客の目を楽しませてくれます。また、19警隊も来訪者等には常に歴史探訪と神話の島として紹介しています。
 皆さんが、対馬にお越しの際には、是非ともこの岬に立ち海を眺めながら103年前の海戦を想像して、情緒を味わってみては如何でしょうか。
(空自19警隊・糸瀬1曹)

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
シリーズ(77)
広島原爆調査資料(3)
-
 この報告書は、陸軍軍医学校と東京第一臨時陸軍病院の調査団、救護班に加え、いち早く救護活動を開始した現地の広島第二陸軍病院や似島臨時野戦病院、福岡陸軍病院、姫路陸軍病院、船舶衛生機関などの報告も統括し、時系列に沿って各科の専門医の立場からまとめられたものです。戦後、この報告書は東京帝国大学外科教授の羽田野茂教授をして「全国の各大学、研究所、各種学会の調査報告書の中でも白眉である」と絶賛されたといいます。
 その内容は、
 第一章 緒言
 第二章 人的被害の状況
 第三章 外傷
 第四章 火傷
 第五章 原子爆弾症1
 第六章 原子爆弾症2
 第七章 病理解剖組織学的所見
 第八章 爆発後被曝地帯に入りたる者に対する障害
 第九章 特殊地帯に於ける障害について
 第十章 放射能について
 第十一章 考按
 第十二章 将来に対する意見
 となっています。
 記述のほとんどは、純然たる医学的所見です。
 最初の緒言では、それまで歴史上存在しなかった原子爆弾の災害に臨んで、陸軍軍医学校最期の報告書が、多少なりとも寄与することを願い、現地衛生部員の払った努力に報いたいと結ばれています。
 第二章の人的被害の状況においては、外傷、火傷、原子爆弾症の3種の形態を示唆しています。
 その原因として爆風、熱戦、光線、紫外線、放射線、γ線を挙げています。
 この報告書を閲覧した専門家の立場から開発実験団部隊医学実験隊の山本哲生3等陸佐は「人体が高線量の被曝をすることは稀な現象である。そのため、現在の放射線の人体影響に関する教科書は、原爆調査や被曝事故のデータや記録をもとに書かれている。彰古館で見つかった原爆調査資料は、先人たちが予備知識の少ない中、被曝の影響について緻密に調べた記録である。厳しい戦況の中で、当時の日本の科学者達が、持てる能力の全てを用いて新兵器に対処しようという気概を感じる。このような貴重な記録は、我々にとって科学者のあるべき姿を教えてくれるものであり、また敗戦によってこれまで顧みられることが無かった、先人の医療に対する想いが分かる資料である。これらが永遠に保存され続けることを望む」と述べており、放射能障害の専門医が現在の科学者の目で見ても、報告書が立派な内容であると評価しております。
 敗戦で自暴自棄になることも無く、残留放射能による自らの白血球の減少を知りながらも、黙々と治療と調査を続けた軍医達の想いは、報告書をまとめることで自らの軍歴にも終止符を打つことだったのでしょう。
 陸軍軍医学校としての最期の報告書は、軍医たちにとっても陸軍所属の軍医として最期の仕事でした。
 崩壊が進んだ報告書は、いずれ「かつて原本だった」という事実しか残らなくなってしまいます。現時点での最新の技術で、酸化を防ぎ、次世代に継承する必要があるのです。

6面へ
(ヘルプ)
Copyright (C) 2001-2014 Boueihome Shinbun Inc