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   2007年2月1日号
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寄せ書き
わたしのお父さん
国分西小学校3年 古市あんな
 私のお父さんは、優しいです。でも、私が弟とけんかしたり、悪さをすると大きな手を振り上げて、大きな声でよく怒られます。また、お風呂上がりに私が、パジャマを着ないでウロウロしているとすごく怒るのに、お父さんは、パンツでウロウロしてビールを飲んでいます。すごく、お父さんばかりずるいと思います。そんなお父さんだけど、毎朝早くから夕方遅くまで、自衛隊で働いているお父さんが大好きです。お父さんが、演習や当直の時は寂しくガッカリします。だけど、演習から帰ってきたら、公園や魚釣りに連れて行っていっしょに遊んでくれます。
 そんな、大好きなお父さんもいやなところがあります。それは、タバコを吸うことです。煙たくてくさいし、体にも悪いと思うのでお父さんには、いつまでも元気でお仕事を頑張ってほしいから、タバコをやめてくれたらもっと大好きになるのにな! これからも、いっぱい遊んでね!
結婚
12普連2中 3陸曹 松原 陽平
 私は、昨年8月16日に入籍をしました。妻とは約1年程度交際をして、入籍を決めました。まだ早いのでは、という人もいましたが私は交際中、ある一つの出来事で結婚を決めました。
 それは一昨年前、父親が脳卒中で倒れました。その時、私は陸教入校中、野営で大矢野原演習場にいました。そこで、父が危ないと言われ急いで国分へ帰りました。しかし何とか一命を取り留め、今は右半身が不自由ですが毎日リハビリに励む父が、私の中で「お前も頑張れ」という激に感じて、仕事をしてきました。
 そんな私の親と妻が食事に行った時に、私の親と初対面にも関わらず、楽しそうに振る舞う姿を見て、初めて結婚を考えそして結婚を決めました。今では、父も母も私より妻を可愛がってくれています。
 わたしは、「結婚」というものを真剣に考えたのは初めてでしたが、自分なりに夢は持っていました。2人だけじゃなくてお互いの親兄弟、友達にお互いに、認めてもらえるような夫婦になりたいと思っています。
 今はまだまだ結婚1年生なので、なかなか上手くいきませんが、徐々に理想の夫婦像に近づけたらなと思います。
 また、7月には家族も1人増える予定なので、仕事とプライベートに対してメリハリをつけ、どちらかだけに偏る事の無い様にしていきたいです。「結婚」は、自分のモチベーション一つで全然違う方向へ進んで行くものなのではないかと今は感じています。自分なりに、理想の夫婦像を持ちながら「家族」という宝物を一生大切にしていきたいと思います。
成人を迎えて
37普連2中 士長 武市 任大
 今年で自衛隊生活2年目に入り、成人を迎え振り返ってみると、様々な辛い訓練及び教育などを受けてきて、去年までの自分とは違い体力面、精神面においても大きく成長することが出来たと思います。
 しかし一般社会人としてはまだまだ未熟な自分なので、成人を迎えてより一層の自衛官としての自覚、及び社会人としての自覚をもって、自分のとる行動の一つ一つに対し責任を持って行動していきたいと思います。そういった考えや行動をとる事で更に自分自身が成長する事が出来ると思うからです。
 最後に、自衛隊生活の中で自分の面倒を見てきてくれた先輩方、育ててくれた両親に対して、成長した自分を見せられるよう日々仕事に対しても、私生活においても頑張って行きたいと思います。

活躍するOB シリーズ
「頑張っています」 新しい職場
「私が代表取締役になった」
(有)KG総合ビルコンサルタント 倉金 敏夫
倉金氏は平成16年7月、宮城地方協力本部を1陸尉で定年退職。56歳
 私は、平成16年7月、自衛隊宮城地方協力本部(援護幹部)を定年退職、翌年5月に有限会社KG総合ビルコンサルタントを設立致しました。
 弊社は、建物清掃業をはじめ、建物のメンテナンス事業、建築基準法による特殊建物調査、建築設備検査などのコンサルティング事業を行っております。
 起業のきっかけは、2年前、自分の夢を妻に話したところ「即」賛同し、良き協力者になってくれました。その後「みやぎ産業振興機構の起業家講座」においてビジネスプランを学ぶとともに、放送大学の大学院で経営学や環境工学を学び自己スキルの向上を図りました。また、自衛隊在隊間においては、地方協力本部援護幹部として部外の方との接し方を学び、さらに自衛隊在隊間において、「工事担当者(保守と管理)」「電気工事士」「消防設備士」などの資格免許を取得しました。特に資格免許の取得は、建物清掃業・建物のメンテナンス事業に活かすことができ、現在の事業にたいへん役だっております。
 現在、会社は2年目に入り『お客様に快適環境をサービスするKG総合ビルコンサルタント』として「事業基盤作り」「業務品質の充実」及び「お客様へのサービス」をモットーに忙しくも充実した毎日を送っております。また退職自衛官の雇用協力企業として、宮城県自衛隊退職者雇用協議会に加入するとともに仙台商工会議所にも加入しております。今後も事務所ビル・マンション、戸建住宅等の日常清掃、定期清掃をはじめ点検・調査及び各種メンテナンスなど、お客様の立場に立った『快適環境のサービス』に徹して、より堅実な事業展開をしていきたいと思います。
 私は『杜の都』仙台で建物メンテナンスや環境サービスを通して仕事にやりがいを感じている自衛隊OBです。気軽に声をかけて下さい。お待ちしております。最後に、退職を予定されている皆様におかれましても自分の夢の実現のため頑張って下さい。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
「軍医学校長の机」
陸軍軍医学校の残照(1)
 彰古館の所蔵品の多くは旧陸軍軍医学校の参考館由来のものです。実は、彰古館以外にも、軍医学校伝来の品々が保存されている例があります。
 昭和20年(1945)の終戦後、新宿にあった陸軍軍医学校は、隣接する東一と呼ばれた臨時東京第一陸軍病院と合流して終戦処理に当たり、12月1日の陸軍省医務局の廃止に伴って廃校。厚生省に移管された陸軍病院は国立病院に改編、同時に東一も国立東京第一病院(現在の国立国際医療センター病院)に改編されます。
 国立東京第一病院が管理していた土地は、旧陸軍軍医学校、陸軍戸山学校、陸軍幼年学校など7万坪という広大なものでした。戦後の復興期には、元軍医達はこの地域を分割することなく、教育、診療、研究、リハビリなどの諸機関を集中するとともに、災害に際しては、防災・救護センターとしての機能する総合メディカルセンター構想を打ち出します。現実問題として、一介の国立病院である国立東京第一病院はもとより、当時の厚生省にはそれだけの財力はありません。結果として、国立予防衛生研究所、国立東京第一病院など一部を除き、分割されて現在に至っています。
 現在の国立国際医療センター病院には軍医学校長の執務机が保存されています。
終戦後、戦災を免れた様々な雑品は、軍医学校の焼け落ちた八角講堂に集積されていました。昭和21年(1946)初頭、ここにあった軍医学校長の机を、元陸軍省医務局衛生課長だった出月三郎元軍医大佐が国立東京第一病院の外科部長室に運ばせたものです。以来、歴代外科部長が使用することとなります。
 その後、病院改修の折に旧来の器材とともに廃棄処分対象の憂き目となりますが、元軍医の福田三男外科部長が保存を病院側に請願します。しばらくは講堂の隅に放置されていたのですが、歴史的な記念物という見地から、現在では立派に修復されて、診療棟エレベーターホールに「森鴎外の机」として展示されています。旧陸軍軍医学校の遺物を現在に伝える、数少ない逸品です。
 明治19年(1886)の開設当時、靖国神社の北隣り(法政大学、東京逓信病院、嘉悦女子学園が所在)にあった陸軍軍医学校は、大正12年(1923)の関東大震災の被害を受け、建物の老朽化から、昭和4年(1929)に新宿区戸山町に移転します。彰古館に竣工時の学校長室の記録写真が保存されていますが、当時の学校長の執務机が確認できます。
 森軍医総監は明治40年(1907)12月まで軍医学校長の職にあり、大正11年(1922)に亡くなっておりますので、実際にこの机を使用した事実は無いかも知れません。しかし、戦後の軍事アレルギーが根強く残る中、旧陸軍の遺物を保存する理由付けは難く、文豪森鴎外の名前を冠することで現在に伝わったのです。
 どういう形であれ、現存する歴代軍医総監の執務机には、懐古趣味などではなく、貴重な歴史の目撃者としてのなんとも言えない風格があります。これも既に歴史の一部なのです。

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