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20連隊が協力者40名を招待 |
ヘリ体験搭乗、高機動車試乗など実施 |
広報室に感謝の手紙多数届く |
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20連隊(連隊長・佐藤末明1陸佐)=神町=は10月12日、第6飛行隊と駐屯地業務隊の支援を得て、協力団体と協力者、広報紙『霞城』協力企業、連隊0B、隊員家族ら40名を招待、航空機(ヘリ)体験搭乗・高機動車試乗、装備品展示、史料館見学などを実施した。 胸ときめかせ、初めて神町駐屯地に足を踏み入れた招待者も多く、外周約8kmもあり全国3番目の広さの駐屯地にはビックリした様子。受付をすませ、第6飛行隊のパイロットから搭乗説明を聞き、早速ヘリ搭乗と高機動車試乗、それに装備品展示及び史料館見学の3個グループに分かれ、約3時間の広報行事が開始された。
空高く飛び回る赤とんぼのようなビューポイントで、山々の上空から、碁盤のような田んぼと伸びゆく東北中央ハイウェーの街並みを眼下に眺め、我が家を見つけては、はしゃいで指さすヘリ搭乗者達。まるでそれは、遊園地の観覧車ではしゃぐ子供のようで…、ドキドキはらはら。
一方、地上ではゆっくりと高機動車が駐屯地を観覧運行すると、見学者は美しく整然と整備された施設と自動車教習所や温水プールなどの各種設備に驚きながらも快適に試乗。また、史料館と装備品展示コーナーでは懇切丁寧に笑顔で説明する隊員の真摯な姿に感心しながら、興味深く眺めたり装備品を手に取っていた。
後日、広報室に「貴重な体験ありがとうございました」という多数の感謝の手紙が届き、その中の(株)土屋ホーム東北山形支店の保科律子さんのお手紙を紹介する。
「先日はヘリ体験搭乗に参加させて頂きまして誠にありがとうございました。初めてヘリに搭乗しましたが、思っていたよりも心地よく、天気が良かったせいもありますが、今までに見たことのない景色を楽しめました。又、装備品展示に関わる隊員様方々の明るくステキな笑顔に迎えられまして、大変気持ちの良い一日になりました。今後とも何かお手伝い等させて頂くことがございましたら、どうぞよろしくお願いいたします。かしこ」 |
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戦車射撃競技会を実施 |
<大和> |
初弾必中!! |
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第6戦単大隊(大隊長・小和瀬2佐)=大和=は12月4日、王城寺原演習場で、17年度戦車射撃競技会(単車戦闘射撃)を実施した。
今回の競技会は、第6師団長視察のもと、4個中隊から7個単車が参加し競った。
開会式で、大隊長は「日頃の訓練の成果を十分に発揮し、各乗員がやるべき事を確実に実施し、車長の指揮で正確性を重視した射撃を実施せよ」と訓示。各車ともに、中隊の名誉と誇りを賭け、最後まで目標の初弾必中を追求し奮闘した。
また、当日朝は風雪模様だったが、やがて回復し、晴天微風で絶好の射撃日和となった。
各車長の「撃て」の号令に対し、初弾必中を期して放たれた弾は、砲手はもとより戦車乗員の優勝への思いを込め目標に見事に吸い込まれていった。=写真
〈優勝単車〉第2中隊(▽車長・菅原曹長▽砲手・滝島3曹▽操縦手・米田3曹▽装填手・渡邉2士) |
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イラク派遣を終えて シリーズ |
空自北部航空警戒管制団 |
第26警戒隊 2空尉 中武 健 |
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私は第7期派遣隊の施設小隊長として、平成17年7月上旬から約4ヵ月間、クウェートのアリ・アル・サレム空軍基地で勤務しました。
到着した当時のクウェートは夏の盛りで、気温は日中50℃を超える日もありました。所変わって原隊所在地の根室の気温は、出発当時はまだ15℃を下っており、とにかく体を慣らすのにしばらくは苦心しました。
何とか第1関門の気候への適応を達成し、後は率先垂範、あらゆる手段を尽くし、任務遂行に邁進するのみと張り切って歩を進めました。施設業務を進める上での主な調整先は、クウェート空軍施設関係業務を担当するMEPと呼ばれる部署で、まともに英語を話せる人は当時2人しかおらず、あとはアラビア語が大多数で、早くも第2関門、言語の壁にぶち当たりました。しかも、初めの頃は業務調整に行っても、「明日来い」とか「担当が違う」など言われるうえ、アラビア語しか話せない担当者は、頑としてアラビア謡でしか話をしません。それならばと、アラビア語辞書を購入して対応するも付け焼刃に変わり無く、ある場所に砂を盛って欲しいと要望するだけで、約40分を費やした時もありました。
アラビア語の応酬は苦痛で、MEP事務所の訪問は、1日1回1時間程度でも、5日分の労働に値するくらい疲れました。しかし、あらゆる手段を尽くすと心に決めた以上、早くこのような状態を脱せねばとしつこく通い詰め、MEPのエンジニアから「今日は来ないのか」と電話をもらった時は、言葉にできない感動を覚えました。言語の壁は完全には乗り越えることはできませんでしたが、その後、MEPから数々の支援を円滑に受けることができ、彼らからある程度は信頼を得たと確信しました。
現地ではMEPのほか、米空軍施設中隊からも手厚い支援を受け、数々の危機を乗り越えることができました。同盟国の関係にあっても、それに甘んじて漫然と付き合うだけでは、ただの知り合いと化します。私なりに考えつつ、何かと気も金も少しだけ遣いましたが、彼らにはそれ以上に本当によく面倒を見てもらい、末端のつながりは良好に維持できたのではないかと思いました。帰国の前夜、施設中隊の幹部が2人、私の事務所を訪れてくれた時には、正直涙が出るほど嬉しかったです。良好な人間関係の構築方法として、まずは自分から相手に近付くために努力するのは当たり前ですが、これはどこでも同じなのだと改めて思いました。
さて、クウェート空軍や米空軍の話ばかりになりましたが、派遣輸空隊の方々についても、上司部下を問わず多数のご指導、助力等を存分に賜ることができ感謝して止みません。私が、私の思うように円滑に任務を遂行できたのは、まさしく関係する全ての人達に支えられていたからだと信じます。7は、やはり幸運の王道を行く数字なのかと再考するほど、7期の派遣隊に選抜され幸運だったと思っています。
ありがとうございました。「インシャーラ」。
【写真解説】中央が当時米空軍386thAEW施設中隊爆発物処理班のネーザンジョーンズ上等兵、向かって右が、韓国空軍派遣隊航空機整備小隊長のリユウ大尉です。この組み合わせができたのは、以下の通りです。ネーザンとは、施設つながりで知り合い、私に英語を教えてくれていました。私は、ネーザンに剣道と日本語を教えていました。リュウ大尉と私は、最初日本食堂での日米韓コアリッションディナーで知り合いました。また、ネーザンは、韓国空軍でも英語教室を開いていて、そこで英語を習っていたリュウ大尉とたまたま私の話になり、3人が知り合うことになりました。 |
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<彰古館 往来> |
陸自三宿駐屯地・衛生学校 |
〈シリーズ 49 〉 |
日露戦争の記録(5) |
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外地での戦争では帰還兵が国内にコレラやペスト、腸チフスなどの伝染病を蔓延させる危惧があります。
明治27年(1894)の日清戦争の折、野戦衛生長官だった石黒忠直軍医総監は、後藤新平中央衛生委員を陸軍省次長の児玉源太郎少将に推薦し、広島の宇品港外の似島に検疫所を開設します。衛生制度上も検疫部を独立した陸軍省内の一部局として、陸軍大臣直属の検疫官の職権を定めます。これによって帰還者は、いかなる階級・人物も例外を認めず、検疫を受ける義務が発生しました。
長期に亘る極限状態から解放され、外地から凱旋した帰還兵は一刻も早く帰郷したいのですから、検疫と停留、入院・隔離、治療などに対しては不平も多く出ました。しかし、伝染病予防の観点から断固として実行に移されたのです。
さらに下関の彦島、大阪の櫻島、小樽検疫所を開設し4箇所体制としました。
明治27年6月1日から翌年の1月11日までの間に似島検疫所では検疫船舶数441隻、検疫人員96,168名、停留人員28,980名、入院患者総数1,260名に上り、これは当時世界でも例を見ない規模でした。石黒は報告書をドイツ語に翻訳し、プロシア衛生長官に贈呈し、絶賛されました。
10年後の日露戦争では、日清戦争時の似島検疫所を第一検疫所とし、さらに第二検疫所を増設し、明治37年(1904)11月1日から、翌年6月14日まで検疫活動を実施したのです。
まず、帰国する船内で検疫の必要性と要領を説明した冊子を渡され、宇品港外で乗船している船舶の消毒が行われます。上陸後は私物品と武器・装備品に荷札をつけて別に消毒します。
着ている服は全て脱いだ上で消毒され、石炭酸水のプールの沐浴で体を消毒して新しい着物に着替えます。血液検査の結果が出るまで、新聞・雑誌・遊具完備の娯楽室で数日から数週間停留されることになります。
この検疫に従事した職員数は1,153名、衛生部員は350余名でした。この間の検疫船舶数は1,753隻、検疫人員663,443名、停留人員3,022名、入院患者7,122名という未曾有の検疫作業となったのです。
彰古館に現存する「明治三十七八年戦役陸軍衛生史」によって、史上最大の防疫活動の詳細が、現在に伝わっています。 |
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9面へ |
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