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   2006年2月15日号
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海氷観測1,000回達成
<2空群>
45年かけ、新たなページ刻む
 海上自衛隊第2航空群、(群司令・畑中裕生海将補)=八戸=は1月20日、航空機による「海氷観測1,000回目」を達成した。
 海氷観測は、昭和35年1月以降、気象庁と防衛庁との省庁間協力として開始され、航空機についてはP2V-7,P2-Jそして、現在のP-3Cへと引継がれ、その目的についても船舶の安全航行に寄与することから、最近では地球規模の気象変動を監視することもその目的として実施されている。
 当日は、午後2時頃に海氷観測機である5101号が任務を終え、無事着陸。引き続き、海氷観測1,000回達成記念行事が行われた。
 記念行事では、機長(2空 飛行隊長・明日山2佐)が海氷観測1,000回達成を報告したあと、畑中群司令が「45年積み重ねられた諸先輩方に敬意を表するとともに、海氷による海難事故防止の観点から第2航空群が担っている航空機による海氷観測の重要性を十分理解し、観測業務に邁進してもらいたい」と訓示した。
 その後、気象庁から第2航空群に対し、「航空機から直接観測の高い精度が維持された海氷情報提供は、海氷の分布を的確に観測することができています。幸いにして近年海氷に関連した大きな事故もなく、これは防衛庁と気象庁との協同による成果であり両庁の大きな誇りであります」と感謝の辞が述べられた。
 更に、札幌管区気象台長及び函館海洋気象台長から第2航空群に感謝状及び記念品が授与された。
 海上自衛隊そして第2航空群は、45年という約半世紀近くをかけて海氷観測1,000回の偉業を達成し、歴史にあらたな1ページを刻んだ。

舞鶴水中処分隊が今年初の潜水訓練
 舞鶴警備隊(司令・加古1佐)所属の舞鶴水中処分隊(隊長・善家1尉他11名)は1月10日舞鶴港内で初潜水を実施した。
 年末年始に例年にない大雪が降り、岸壁付近には多量の雪が残っており、しかも気温3℃、海水温度7℃と厳しい気候だった。
 警備隊司令の見守る中、塩、御神酒で心身、器材を清め、厳しい気候に負けない気合を持って訓練に臨んだ。訓練は午前、午後にわたり、素潜り、シュノーケル泳法、索による捜索法をいつものように整々と実施した。
 訓練後は、水中処分母船の調理員長が作ったぜんざいを食べながら今年1年の潜水安全祈願と一致団結を誓い合った。

今般の防衛施設庁問題で1月30日、額賀福志郎防衛庁長官より次のコメントが発表された。
 本日(30日)、競売入札妨害の容疑で防衛施設庁の河野技術審議官、松田総務部施設調査官らが東京地方検察庁に逮捕されたとの報告を受けました。防衛施設庁幹部職員の逮捕者が出たことは、国民の信頼を著しく裏切ることになり、誠に慚愧に堪えず、事態を厳粛に受け止めております。
 東京地検の捜査に対しては、全面的に協力し、膿を出し切り、事件の全容が解明されることを望みます。
 私としては、行政上、組織上の問題点を洗い出し、国民の目線でいささかの疑惑の目で見られることがないように、施設庁を解体するつもりで新しい出発をすることが急務であると思っております。

<論陣>
イランの『核』は必要なのか
世界世論に反してまで研究再開
 イラン・イスラム共和国(正式国名)が、原子爆弾の製造につながるウランの濃縮研究を再開したことで、英国、フランス、ドイツ、アメリカなどが強く反発している。欧米諸国は経済制裁などを決める国連安全保障理事会に提訴する構えをみせているが、これに対してアフマディネジャド・イラン大統領は「イランは核研究を中止しない。ウラン濃縮もイラン国独自の権利である」と欧米諸国を強く批判。いくら国際社会が圧力をかけてきてもこれに屈することはないと強調している。イランは、この態度を変化させることはないのだろうか。
 およそ6千万人の国民を抱えるイランは、文字どおり石油大国である。石油と天然ガスの埋蔵量はわれわれが想像する以上であるといわれている。その他、資源として鉄、石炭、銅、羊毛、小麦、ブドウなど実に豊富である。石油、天然ガスの有力産出国のイランが「エネルギー確保」を名目に、なぜ、核研究にこだわるのかは実に不思議である。その証拠に現にイランは年間900億キロワットもの火力発電を行っているのである。あり余る石油、天然ガス、石炭を使って発電しているのならば、核研究、特に『ウラン濃縮』にこだわるのは、矢張り欧米各国が言う「原子爆弾開発のため」という論理が真実味をおびてくる。
 イランは十数年前から核研究に手を染めていたが、英国、フランス、ドイツなどが「イランは、リビア同様、核兵器の開発を進めようとしでいる」と抗議。その結果、2004年11月、3国との間でウラン濃縮関連活動停止に合意、調印のうえ、核関連施設を閉鎖した。
 ところが昨年8月、対欧強硬派のアフマディネジャド大統領が突如、ウラン濃縮作業の再開を命じた。そのうえ、「イランの権利」を強調する一方、反イスラエル発言を繰り返し始めた。こうした動きに対して、3国に加え、米国も反発。安保理提訴へ同調する動きをみせ、日本も欧米各国の動きに理解を示している。
 イランは、紀元前から数多くの国ぐにに征服されたり、植民地化された歴史がある。もともと紀元前7世紀ごろアーリア系民族が「メディア王国」を建国したことに始まる。一時は古代オリエントを支配したが、紀元前330年にアレキサンダー大王に征服された。そのご、226年に復国したが、11世紀にはトルコ、モンゴルに支配され、さらに19世紀にはイギリス、ロシアの半植民地化になるなど"圧迫と圧政の運命"をたどったのである。そのあと、1925年には軍人出身のレザ・ハーンがパーレビ王朝を創立し、国名をイラン(アーリア人の国)と改めた。70年には第4次中東戦争で石油、銅、鉄などを外国に売却し、ぼう大な利益を得た。イランは、この利益を元に経済発展を計画し、工業化に力を注いだ。
 ところが、この発展計画が急激なインフレと富の偏在を生み、庶民の不平不満が爆発した。これで国王は79年1月、外国に亡命せざるをえなくなり、国外に退去した。その後、ラジャイ大統領が選出され、国内の安定を図ったが、81年5月、同大統領が閣僚らとともに暗殺された。
 79年2月、海外に亡命していたイスラム教シーア派の最高指導者ホメイニ師が帰国、指導部(委員会)を設置し、事実上の同国指導者となり、国名を「イラン・イスラム共和国」と改称した。89年ホメイニ師が死亡。ラフサンジャニ大統領のあと97年、穏健派のハタミ氏が大統領となった。ハタミ大統領は、これまでの欧米諸国に対する強硬反発の動きを変更し、核問題などについても柔軟な姿勢を見せていた。
 これが再び『硬化路線に』転換したのは、アフマディネジャド現大統領になってからである。「イランはイラン人の手で確立する」強硬的な政策をつぎつぎに実行し始めた。『核研究の再開』も、この強硬政策のひとつである。
 欧米各国の反発についてロシアは一応、理解をみせているが、もともとイランの核施設は旧ソ連製であるところから、苦しい立場ものぞかせている。中国はイランから大量の石油輸入契約を結んでいるので無口。それでもイランは経済制裁などを防ぐためには、根本的には『核研究の中止』以外に道はなさそうだ。
 国際原子力機関(IAEA)緊急理事会が、このほどイランの核問題を国連安保理に付託する決議を採択した。

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