太平洋戦争敗戦後(1945〜)の日本を占領統治したGHQのマッカーサー元帥は、帰国して1951年5月アメリカ上院軍事外交委員会で重要な証言を行った。「ーーー日本には蚕を除いては、産品がほとんどありません。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、そのすべてがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ちきられたら、日本では1千万から1千2百万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(Security)の必要に迫られてのことでしたーーー」と。
故渡部昇一教授を始めとする保守派の識者は、この証言を以て、マッカーサーが太平洋戦争は日本の侵略戦争ではなく、安全保障のための戦争、つまり防衛戦争だったことを認めたと主張する。東京裁判で被告東条英機は、「ーーー重要物資の大部分を、わが国は米英よりの輸入に拠っています。もし一朝この輸入が途絶すればわが国の自存に重大な影響があります。然るに日本に対する米英蘭の圧迫はますます加重せられ、日米交渉において局面打開不可能となり、日本はやむを得ず自存自衛のために武力を以て包囲陣を脱出するに至りましたーーー」と主張した。マッカーサーの証言はこの東条の主張を認めたものである、と。
上記証言だけでマッカーサーが日本の戦争は全面的に自衛戦争だったと主張しているとは結論できないように思われる。しかし、故渡部教授らが指摘するように、マッカーサーは在任期間中に体験した朝鮮戦争を通じて日本の安全保障環境をよく理解し、日本の戦争は自衛戦争だったとの見方を強めるに至ったとみてよいのではなかろうか。
1950年6月ソ連の支援を得て北朝鮮は突如韓国に侵攻し、南の釜山まで占領。アメリカはマッカーサーを総司令官とする国連軍を組織。韓国軍とともに反撃し、中朝国境近くまで押し戻したが、中共軍が北朝鮮の友軍として参戦し、一進一退となった。マッカーサーはトルーマン大統領に、「かつての満州を空襲して、敵の本拠地を完全に粉砕する、また東シナ海の港湾を封鎖する、」と強く進言。ソ連との核戦争になることを恐れたトルーマンはこの進言を退け、マッカーサーを解任した(1951年4月)。国連/アメリカ軍は共産軍に押し戻され、もとの38度線で休戦となった。
マッカーサーは朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中共の脅威を痛感した。そして日本が明治以来ずっとロシア/ソ連の侵略的膨張に脅威を感じてきたことと、日本の戦争がこれに応対する戦争だったことを理解した。北から強大な勢力が朝鮮半島に下りてきたとき、日本を守るために朝鮮半島を守らねばならない。そして朝鮮半島から脅威を払拭するために満州に出なければならないという、戦前の日本がやってきたことをマッカーサーは期せずして追体験することになった。
歴史家鈴木荘一は、戦前の満州国が共産ソ連の軍事的脅威に対する防波堤としてつくられたことをよく認識すべきであると言う。そして日本は国際社会に説明して、「満州建国はソ連の軍事膨張に対する防共国防活動なのだ。国際連盟加盟国もソ連の軍事膨張に対する防共活動を怠ると痛い目に遭うよ」と警告し、理解を求めるべきだったと言う。その後ソ連に支配されて苦しんだ東欧諸国の歴史を見れば、鈴木氏の主張には貴重な真実が含まれているように思われる。
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |